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「告」・・・私が体験した裁判の実態
2010/07/04(Sun)
これは「裁判」ではない。裁判という名のゲームである。


私は、この事件を通して裁判というものに初めて関わった。

それまでの私にとって、裁判とはテレビドラマや映画の中の出来事でしかなかった。あとは、ニュース番組の情報くらいであった。

私が見たこの裁判は、被告人を裁いている場ではなかった。

私が体験した裁判とは、法廷にて検察側の論理と弁護側の論理を並べて、どちらが論理的なのかを、3人の裁判官が「多数決によって決めるもの」であった。つまり、3人の裁判官のうち一人が無罪と判断しても、あとの2人の裁判官が有罪の判断ならば、被告人は「犯罪者」となる。被告人だけが知り得る「真実」などそっちのけである。

一審の裁判官は、法廷に入るまで「事件」の内容も、被告人の生い立ち・人格・環境・信条についての予備知識を持たせては貰えないのである。いきなり、目隠し状態で入廷したばかりの裁判官が如何に優秀な人たちであっても、短時間で真実を判断する場にはなっていない。裁判官が偏った「先入観」を持たないようにとの理由からだが、これは起訴した検察側にとって裁判官が予備知識を持つことが好ましくないためであり、検察側が起訴理由を述べて証拠を裁判官が初めて目を通した時点で、裁判官には「先入観の苗」が植え付けられる。
被告人と弁護側にとっては不利なスタートルールが存在している。
一審に於いて「公平な裁判」とは、存在しない。

検察側は、頭から「犯罪者」であるという「答え」に行き着くためだけにエネルギーを使う。これは、警察での捜査段階から続けられている。検察側は起訴した立場上、被告人に有利な証拠は邪魔であるため立証するためには証拠を、継ぎ接ぎ加工する手段(トリック)も使う。被告人の真実がどうであるかは関係ない。
「犯罪者」に仕立て上げなくては、その存在理由が成立しない。
法廷での検察官は、上司の指示通りに実行するのが仕事である。もし、個人的に嫌な質問でも指示通りに務めなければならない。手や口元に振るえが出るのも致し方ない。良心の呵責は、態度に出る。

検察側は、被告人が真実を語ることより、被告人の思考を意図的に混乱させるための言葉を駆使していた。検察側にとって有利な展開に持ち込むためには、原付免許の「ひっかけ問題」並みの質問を法廷で行っていた。

被告人は、検察側の質問内容が理解出来ない(ひっかけ問題・時系列がバラバラ)場合、検察側に対し質問の意図を確認することが出来ない。しかし、この裁判では検察官の質問がわざと意地悪く難解なため、被告人から質問に対する質問が出された。検察官は、「質問しているのはコチラ側です」の言葉で被告人の口を塞ぎ、期待通りの証言が出ないので、「では、次の質問に変えます」で、擦り抜けた。

検察側は、被告人だけしか知りえない真実を、本当に知りたいのではなく、「真実は兎も角」自分たちの起訴理由が立証できれば良いのである。文法的に誤った日本語での質問の仕方が露呈するため、同じ質問を続けることが出来ない。一発勝負であるため、早口での質問も行う。

検察側の質問は、被告人に「故意・殺意があったかどうか」に始まり、次に「死への認識があったかどうか」に移り、「反省しているかどうか」の質問へと変わる。どれも、被告人が「犯罪者」になるように導くためのやり方である。

他の事件で、被告人が犯行を認めている場合でも、刑を軽くするため「殺意・認識」を否定し、反省の態度を繕うことは出来る。反省していると裁判官が信じるか信じないかで、判決が変わる。無罪を訴え続ける被告人に「反省の色がない」からの理由で刑が重くなる。反省とは、その場凌ぎのこと。
個人によっては、反省の態度を示した被告人が、再犯を繰り返す。つまり、反省しているかどうかは、意味のないことである。

実は、検察官も裁判官もその事を知っている。けど、その場限りであるから、いっぱいある裁判の中の一つに過ぎないから、気分次第で仕事を消化するだけ。

「反省だけなら、猿でも出来る」・・・反省している被告人を猿扱いである。
(また来いよ。いつでも遊んであげるから・・・である)

「改心」なくては、同じ過ちを繰り返す。



この裁判は、「生と死」という人の命について審議しているのに、真実には無関心の姿勢である。私は、テレビドラマ「ヒーロー」で木村拓哉が演じた検察官とは「程遠き」検察官の実態を目の当たりにした。ドラマのような検察官は、北か南の端っこで、スルメイカの盗人探しをさせられているのである。

被告人にとって、法廷での発言は検察官・裁判官・弁護人からの「一問一答」形式であり、3者からの質問に答えること以外許されない。法廷にて被告人自ら真実を語るための自由は「剥奪」されている。本当に真実を語り無罪を訴えたい被告人にとっては、目には見えない「猿ぐつわ」を取ったり付けられたりされ続ける「拷問」に等しき場である。

因みに、法廷にて傍聴人は、如何に検察官・裁判官・弁護人らの言葉・行動に対して「おかしい?」と思っても、「法廷侮辱罪」という制限があるので、発言できない。「ちょっと、待ってください」の言葉を飲み込まされるルールがある。
私は傍聴席で、「えっ?」と思うような発言を幾度も聞く体験をした。柵の向こう側のエリートたちが、言葉を巧みに操る恐ろしい事実に、私は正直驚かされたのである。


インターネット上にて、「裁判の起源」を調べると子供向けに判り易く挿絵があり、「昔、裁判官の仕事は権力者の仕事の一つであった。罪を問われた若い娘が有罪か、或いは無罪かは、煮えたぎる熱湯に手を入れてヤケドしたら有罪」であった。「無茶苦茶な時代があったものだ」と呆れ笑うのは簡単なこと。
この話の本質は、裁判とはそもそも(起源)、時の権力者が脅しのため真実はどうであれ、犯罪者に仕立て上げることから始まっている。ゲームである。

現在までに、治安を守り国民の生命・生活・財産を守るためとの名目で、多くの法律が作られ、そして法律は増え続けている。しかし、犯罪者は増え続け、無くならないのはなぜか?

裁判の根底にあるものは今も、起源に書かれているままである。

「まさか」であるが、「真逆(まさか)は、いつも現実」である。

この話、いつまでもボケボケの方には判らぬ話である。

「ゲームオーバーの時は近い」ことさえ判ってやっているのが法曹界である。


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「告」・・・声溜めの淵から
2010/06/26(Sat)
2010年6月26日
ブログ記事を休止したのは、丁度一年前である。 「ただいま・・・である」

心の肥やしは、たっぷり溜まって「肥溜め」となった。
たっぷり溜まった未公開のブログ記事は、云わば私の「声溜め」である。

さて、「肥溜めブログ」を再開しよう。

私が存在している世界では、「まさか」の出来事が頻繁に起きている。
私は、読者の世界に事実存在している。つまり、読者の存在している世界とは、私、永山拓美が体験し続けている「まさか」の世界である。

私は、これまでのブログ記事をすべて私が体験した事実を基に書いて来た。
それは、今後も変えるつもりはない。

「事件」は、私の目の前で起きた。・・・そして、私はこの事件の関係者の一人である。

長谷氏一家に何が起き、逮捕・拘留・弁護士とのやり取り・すべての公判現場を直に目撃しているものである。私の記述には「憶測」はなく事実しかない。
幾つもの事実(データ)を結びつけ「吟味する」と、「推測」が導き出される。

以下、私の記述に関しては、如何なる方の如何なる疑問も「憶測」を解してでは無力である。私は、何時でも「現場主義」であり、私の体験(確認を含めて)を最重要視している。私にとって、私の体験したこと・私が感じたことだけは紛れもない「私の真実」である。

去る2008年11月1日、私の知人である長谷章宏・真由美夫妻は、私の目の前で京都五条署の任意出頭要請に対し素直に従い、当日警察署内にて逮捕された。

「京都市乳児死体遺棄事件」である。

この事件は、事件が起きたのではない。正しくは、国家権力の「ある意図」により「事件にされた・・・事件」であることだけは確かである。

すでに裁判は、一審・二審(控訴審)を終え、長谷夫妻と弁護側は最高裁に対し「上告」申請を済ませている。これは、検察・警察において捜査段階での「殺人」「児童虐待」が立証できない事実の判明により、罪状は「死体遺棄」「保護責任者遺棄致死」に変更され、審議されている事件である。

私は、法律についての専門家どころか、おそらく平均以下の遥か下の知識しか持ち合わせていない者である。私は、「無知」であるがゆえに法廷(現場)にて我が身を運ぶことから、この裁判の実態を知る事が出来たのである。

この事件と裁判には「異例」「おかしなこと」が、てんこ盛りである。私は、長谷夫妻の支援者としての立場に立ち、弁護士の方たちと共に弁護活動を続ける事から、警察・検察・裁判官・マスコミの実態を知る事になった。(詳細は、膨大のため後日の記載とするが、守秘義務に沿った記述となる)

この裁判は、事件発生直後にあれほど騒いだマスコミが、一審判決以降の法廷に誰一人として一度も姿を見せていないし、報道されていない。弁護士からの新聞紙面による誤報(宗教団体等の記述)を認めても、謝罪文ひとつ掲載していない(出来ない)。底には明らかに「ある意図」があり異常であることが判る。

よって、私からマスコミに対しコンタクトを執るつもりはない。

私は、この事件において全ての裁判法廷に足を運び、法廷という現場で何が起きたのかを見た者である。彼らが、現時点において私以上に語る事は不可能であり、正確に表現するならば、私以上に語る事が出来るのは、長谷夫妻である。

現在、長谷夫妻は保釈中である。一審・二審にて実刑判決が出されたのに、裁判所が「三回の保釈許可」を出すなど、異例中の異例である。

近日、長谷夫妻と支援者により「説明会」を開く。会場に、私が足を運ぶことは当然である。読者は、自分が思ったままに行動するだけである。

以下は、「説明会」の案内文です。既に一回目の大阪会場は終了。明日、東京・青山「こどもの城」にて、二回目の「説明会」を開きます。

【お知らせ】
この度、「長谷章宏・真由美夫妻を支援する会」という名称にて長谷章宏・真由美夫妻が上告審に向けて集中できる環境を整え支援する組織を発足致しました。現在、8名(会長1・副会長2・運営委員4・会計1)でありますが、更なる組織化を進めながら、同時並行で活動を開始致しました。(私は、運営委員の一人です)

その始めとして、同会主催にて「説明会」を開催することを決定しました。この「説明会」は、現在、保釈・裁判中の長谷章宏本人が、この事件の意味とカラクリについて、説明を行うものであります。

「説明会」の開催は、6月20日に大阪、6月27日に東京で行うことが既に決まっております。更に、日程的には未定ですが、開催地区として北海道、九州、中部を検討しております。大阪と東京の「説明会」については下記の通りとなります。

                   記

<1.大阪「説明会」>
・日時  6月20日(日)
・場所  新大阪丸ビル新館307号室 *本館とお間違えの無いようご注意下さい。
      〒533-0033 大阪府大阪市東淀川区東中島1-18-27
            TEL 06-6320-6000(代)
・定員  40名
・時間  受付開始 14時
・     開演    14時15分  終了19時(退去時間ですのでご協力下さい)
・料金  無料
・交通アクセス 新大阪駅東口から徒歩
        周辺地図は以下のURLをご参照下さい。
        http://www.japan-life.co.jp/jp/conference/map.html


<2.東京「説明会」>
・日時  6月27日(日)
・場所  こどもの城 901号室 
      〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-1
            TEL 03-3797-5677(代)
・定員  36名
・時間  受付開始 13時
・     開演    13時15分  終了17時(退去時間ですのでご協力下さい)
・料金  無料
・交通アクセス 渋谷駅から徒歩10分(東口/宮益坂側)
        都営バス渋谷駅(東口バスターミナル)から[渋88]新橋駅前行
        「青山学院前」下車すぐ。等
        周辺地図は以下のURLをご参照下さい。
        http://www.kodomono-shiro.jp/access/index.shtml

※注意事項(受付票の提出依頼)
  今回は長谷章宏・真由美が保釈中であり、上告審を控えている身であります。
裁判が進行中ということで、最大限に神経を使いながら説明を行う必要があります。
従って、「説明会」参加者には、そのプロフィールを明らかにして頂くことを求めます。
以上をご理解の上で参加ご希望の方は、A4サイズ白紙に、①郵便番号、②住所、
③氏名、④年齢、⑤性別、⑥職業、⑦電話番号(固定電話並びに携帯電話)を記載し、
白紙左上に顔写真を貼付したものを各自事前に作成して、当日受付にご提出下さい。

また、会場室内は飲食物の持ち込み、および、喫煙は不可です。


<お問い合わせ窓口>
  「長谷章宏・真由美夫妻を支援する会」事務局
         電話 06-6535-5386
         携帯 080-6549-3654(担当:木下)

                                       以上

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じゃあまたね・・・・である。
2009/06/17(Wed)
年明け以来、私はブログ記事の更新をしていない。
今更ながらである。・・・・が、きちんとブログをお休みすることにした。

また、再開出来る時がいつになるかは、今はわからない。

今はもう、ブログの事を考えている場合ではない。

じゃあまたね・・・・である。
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「心の旅」・・・本当の、自分探しの旅
2009/01/19(Mon)
昨年の12月1日以来、ブログ記事の更新をあえて止めていた。
自分探しの「心の旅」に出たのである。もちろん今も旅の途中である。
前回のブログに記載した中に「向かい合うふたつの大文字山」が、今の私が自分と向き合うことを、
今やるべきことだと現わしていた。

きっかけは、妻からの助言だった。
「自分と真剣に向き合って、こなかったでしょ!!」
「今、あなたに必要なことはブログを書くことではなく、これまでの自分のしてきたことが何だったのか、     そこにどんな思い・こころがあったのかを、ちゃんと掘り下げてみる事が、大事なんじゃないの?」
「自分探しは、外をいくら探しても見つからない」
「本当の自分探しは、自分の内側・こころの中にあるのよ」

私は、これまで自分と真剣に向き合うことをせずに、47年もの歳月を生きてきたのである。
自分と真剣に向き合うことは、自分の嫌なところ・見たくないところを見る事になる。
当然ながら、そんな自分の奥のところを見て「認める」直前までは苦しい。
しかし、「認める」と苦しさは消える、楽になるのである。
認めたあとは、「じゃあ、どうするの」って、自分に問いかけ直していくのである。

これでスッキリ・・・・終わるわけが無いのである。
永い年月で、染み付いた「癖」はその後も、日々の暮らしの中で「しぶとく」いろんなところでアタマを出してくるのである。
堆肥の効いた土地に、土の上だけ刈り取っては生えてくる「雑草」のしぶとさである。
「根っこ」から処理をしないと、終わりはない。
私がほったらかしにした土地は雑草だらけで、しかも「根が深い」のである。

今後わたしは、日々の暮らしとTLC匠の活動の中で、この作業を同時進行しながら、「草取り」の視点から   ブログ「TAKUMIのいいつたえ」を、書いていきたいと思います。

今回、私にとって「大事な事」へ導いてくれた妻と、私を見守ってくださっている方々に、心よりお礼を申し上げます。


前作の続編を、待たれておられた方へ
私としては、前回の続編を書くための用意はしています。かならず書きます。
私には、「書きたい」の思いがあるからです。
それは、私にとって学生たちとの素晴らしい出会いと体験が、あるからです。
ただし、その前に「書きたい」ことが、今の私にはありますので、お時間をいただきたいと思います。

じゃあ、またね。・・・・・である。

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火祭りのいいつたえ・3 「彼岸の風」
2008/12/01(Mon)
京都は歴史の街である。

京都は、奈良の都がこの地に遷都される際、大陸から来た「秦氏・はたし」という、
土木技術者の集団の手によって造られた都である。
そして、この街を流れる川も彼らの「手」による作品である。

前回のつづきである。


あの「大文字・五山送り火」の出会いから一ヶ月余りも過ぎた頃、すでに暦は「彼岸」を迎えていた。

9月に入ってからの私は、日々のスケジュールの中で少し焦りを覚えていた。
昼過ぎに、大学へ連絡を執ったところ、あいにくK氏は多忙らしく外出中だった。
ただし、夕方の17時から18時までは、大学内に戻られていて私の訪問は「大丈夫」とのことだった。


私は、大学との電話を終えると、京都市内の地図を開き、K氏の名刺に書かれた住所を頼りに大学の場所を探した。
なんと、である。大学は京都盆地の東に連なる山の北側、あの「大文字山」の北隣りの瓜生山にあった。
昼も2時を回り、私は自宅での仕事を終えると、秋晴れの街へ自転車を走らせた。

私には、もうひとつ行きたい所があった。「粟田神社」である。
鞍馬口通りを抜けるルートの途中、左に見えた高城邸をちらりと横目で流す。
あの「五山送り火」の出来事がそのまま今この瞬間も続いているのだと、頬に感じる秋風が教えてくれているようで嬉しかった。


賀茂川にでると。いきなり視界が開け、嬉しいことに遥か前方に「大文字山」が見える。
鞍馬の橋の中程で立ち止まり、川下を眺めたまま視線を頭上に移した。
和らいだ日差しと川沿いを伝う「彼岸の風」を、なんとも心地よさそうに捕らえて飛ぶ二羽のトンビの出迎えを受けた。

     昨年の九月から、もう一年間も空を飛んでいない。
     しかし、16年の間に私の身体に染み付いたハンググライダーの感覚は
     頭上の「先生たち」の腕前を眺めるだけでも楽しむことは出来た。


私は、川沿いの風を味わいながら、粟田神社を目指した。
川端通りを南下して交差する三条通りを東に折れ、暫らく走ると、ゆるやかな上り坂が始まる。
前方に見覚えのある風景が見えてきた。
それは二ヶ月前のあの暑い夏の日の午後、街頭活動のため仲間たちと訪れた
平安神宮へ向かう神宮道の始まる交差点だった。


交差点の先、100メートルほど坂を登った右手に古びた鳥居が見えた。
鳥居を潜ると、右手前方に小さな自転車溜まりが目についた。
先客たちに「右へ倣え」と自転車を置き、それなりに歴史のありそうな狭い石畳を進むと、
路の傍らには、何やら意味ありげに植え人知らずの白い彼岸花が咲いていたのである。

     (私は、植物図鑑で白い彼岸花があることは知っていたが、直に見るのは初めてだった。)

二つ目の鳥居と登りの石段から、神社の本殿が高台にあることを察する事が出来た。
鳥居の袂に掲示板があり、よく見ると手作りの「ねぶた」らしき図柄のポスターがあった。

     「ははあ、これだな」いよいよ・・・である。

石段にかぶさるように成長した桜並木の根元には、今度は赤い彼岸花である。

     私は、石段を踏みしめながら思った。

     「京都に来たのに、ねぷたは私をはなれない」
     と云うよりは・・・「私が、ねぷたを放さない」と言った方が正しい表現である。

     そうでなければ、私がこの行動を選ぶこともない。
     私が求めたもの、心の奥で強く望んだ「ねぷた」への思いが、今も続いているのである。

     この時の「現れ」・・・つまり私に起こる「現実」とは、私が常々口にしているセリフだが、

     「すべては必然」であり偶然ではないことを証明している。

ようやく・・・である。石段を登り切ると、神社の境内は清々しい風が、

             「よう、参られたな」・・・との、出迎えである。

いつの間にかバッグを背負ったシャツの背に薄っすらと汗を掻いていたことを、
粟田神社の「神風」が教えてくれていたのである。


石段の上がり口の袂に「灰皿」が見えた。
ひとまず、タバコを一本取り出し、「いっぷく」・・・である。
煙の動きが実にいい。風の流れを充分に楽しませてくれるのである。
煙を目で追うと、社殿の傍らから、眼下に広々とした京都の市街地が見えた。
そして遥か北西の山に目を凝らしてみると、「左・大文字」の姿を臨むことが出来たのである。

     ふと、私は思った。「ふたつの大文字は・・・向かい合っているやも」・・・と。
     
     まるで「鏡写し」とも採れる。それが何なのか?いやはや、京都の歴史は深いのである。


それはさておき、粟田神社に来た目的は「ねぶたのルーツ」と、うわさの「ねぶた祭り」である。
社務所の窓口に白衣を着た年長の男性の姿があった。

私は、挨拶をしてから口火を切った。

     「こちらの神社で近々、ねぶた祭りがあるとの話を聞いてきたのですが」
     「何か頂けるねぶたの資料はありますか?」

     しかし、「ええそうですが、詳しいことは解かりませんなぁ」と、いまひとつの反応であった。

すると、社務所の左隣にある松羽目を配した能舞台の脇で作業をしていた若い職員らしき男性が、
いささか訝しげな感じで現れた。
私は改めて、名刺を差し出し「私とねぷたの関わり」と「私の知りたい事」を話した。

     私は、「あたりまえ」の基本を思い出したのである。今思えば、とほほ・・・である。

若い職員の方は表情が変わり、にこやかに粟田神社とねぶたの関わりの丁寧な説明を終え、
「ちょっと待ってて・・・」と言い、彼の姿は社務所の奥へ消えた。
社務所の奥から、プリンター?らしき音が聞こえてきた。
     
     私は、彼の対応に”嬉しいびっくり”・・・である。

一枚の資料と、神社のパンフレットをもらう事が出来た。
そして、石段下の掲示板にあるユーモラスな「ねぶたのポスター」は、
なんと彼の手作りであり、まだ仮のデザインとのことを聞き、またまた笑顔の交歓となった。

「是非、ねぶた祭りに来て下さい」という見送りの言葉に、
私は「はい。必ず」のあとに礼を述べると、粟田神社を後にした。

     180年ぶりに復活する京都のねぶた祭りに
            「私は参加したい!!」

ふたつの鳥居を潜ったあと、私は思い出の地・平安神宮の大鳥居を抜けると、
一路「瓜生山」を目指したのである。

岡崎の山を横切り京都大学の正門前に出た。
私は自転車を停め、K氏へスケジュールの確認を取った。結果はOKである。
K氏から、耳に覚えのある明るい声の、「喜んで、お待ちしています」が聞こえたのである。

      (いよいよ・・・である。)


目の前には京大の美術部などの看板に並び、ハンググライダーの機体がそのまんまペタンと一機、看板として壁にくくられていたのだ。
     
     私のしてきた「空への思い」も、しっかり現れることを示しているのだと思えた。
     この時、京大ハング部の学生たちとも
     「会いたい」の思いが湧いてきたのを感じ始めていた。


    

京都造形芸術大学のキャンパスは、瓜生山の斜面に張り付くように広がっていた。

正面入り口からして、いきなり「大階段」なんて・・・私は見た事ない。

大階段上にそびえ立つ校舎の屋根下には、すでに幾つもの製作途中の「ねぶた」が見えていた。


受付を通してK氏と会い、一時間の案内を受けることとなった。
大階段の上からは、夕陽を浴びた京都の街が一望出来た。

K氏は、にこやかに一言。
     「永山さん、ここから眺める夕陽が、京都では一番なんですよ」
     (たしかに、・・・である。)
K氏の肩越しの先には、夕陽をカメラに収めようとする学生の姿があった。


キャンパスのいたる所では、屋内・屋外を問わず思い思いの形をした「ねぶた」の製作風景が見られ、何処も真剣に取り組む学生たちで活気で賑わっていた。


見るほどに、確かに私の関わってきた「弘前ねぷた」とは、
形も内部構造も全く違うものばかりである。
しかし、ハリがねを組む者、ひたすら紙を貼る者、電気を仕込む者、
大工仕事を担当する者などなど・・・皆この春、この学び舎に集った「若者たちの目」は、
嬉しいほどに「いきいき・わくわく」の輝きに満ちていた。

私は、K氏に思ったままを語った。

     「いいですねぇ。みんな子供の目をしているのが、なんともいいものですね」

     「・・・で、しょう」と、K氏は笑顔で答えた。


彼らの「目」は、私が永年に渡り関わった「必殺ねぷた人」のねぷた小屋で幾度も目にしていた
「こどもの目」だったのである。

     思わず私も仲間に加わり、手を出したくなる・・・そんな思いでいっぱいになっていた。



K氏の案内の途中、キャンパス内のやたらと長い斜面の高台の一角に、「幕末・安政の大獄」
で命を落とした「吉田松陰」の像があった。

     「なぜ?松陰の像が?」との私からの問いにK氏は答えた。

     「なんでも、この大学の理事長の意向とのことです」



   吉田松陰と言えば、長州藩・萩の「松下村塾」である。

   10年前の夏の旅で、私は「彼の地(かのち)」を訪れている。
   そして、幕末史にその名を残す「松下村塾」の以外に小さな建物に、
   高杉晋作・伊藤博文を始めとする松陰の弟子たちが、「すし詰め」状態で学んでいたことを
   知ったのである。

   吉田松陰とは、「旅の男」であり、外国を知るために渡航をを試みたが、
   「彼の地」には渡れずとも、命を懸けて自らの思いに正直に生き抜いた男である。


時刻は6時を回り、私たちは再び大階段の上に戻った。
私は、この日の礼を述べるた。

     「是非、オープンの日にも来て下さい」

     「はい、ありがとうございます。必ずお伺いさせていただきます」

K氏と私は、「じゃあ、また」の言葉を笑顔にのせて別れた。


私は、まだ作業を続ける学生たちの姿が気になり、そのまま帰るのをやめ、
幾人かの学生たちとの、会話が始まった。

     極力、私のこれまでのノウハウは目の前の彼らには「余計なお世話」であり、
     初めての「ねぶた作り」の試行錯誤を楽しむ機会を奪いかねないと踏んだ。

     ただし、・・・である。

     昨年のねぶた作りで「味」をしめた二年生たちには、
     ちょろっとだけ「ヒント」になる程度のことを言うだけで治めた。

彼らは今年の粟田神社の「ねぶた祭り」で運行するねぶたを作っていたのである。

前年の800人の経験者の中にあって、今年も自ら志願した25、6名の学生に
数名の職員が混ざった「ねぶた部隊」であった。

     ねぶた作りも二回目ともなると、さすがに美大生である。

持ち前の「センス」と「こだわり」は、作品と作りに没頭する姿が重なり合う「絵」であり、
見ているだけでも嬉しいものである。

     やはり彼らも、私の大好きな「こどもの目」を失ってはいないのである。

方々で片付けの動きが見えてきたところで、私は自宅に帰る事にした。


私は大階段の上に暫し立ち止まり、前方に広がる夕暮れの京都の街を眺めた。
京都市街を跨いだ西の彼方に、「左大文字」の黒い山陰を辛うじて見ることが出来た。


仰ぎ見た瓜生山より吹き降ろす山風は、私と「こどもたち」の間をいつまでも舞っていたのであ
る。

次回へとつづく。

追記  12月1日(師走の始まり)

記事の中の「彼岸」が、私にまとわり着いたのは、「気のせい」だろうか?
「彼岸」とは・・・向かい側に渡る。・・・である。

この日、私は賀茂川を対岸に渡り、「彼岸花」を目にし、
京都の街を隔てて東西のふたつの「大文字」が向かい合うのを見た。

かつて、京都盆地は「沼地」であった。つまり、ふたつの「大文字」は、互いに向こう岸にあったと言える。

吉田松陰の像も見たであろう左大文字の黒い「山陰・やまかげ」は、・・・山陰(さんいん)。
彼の故郷は「山陰地方」の山口県萩市・・・その萩を、私は「彼の地・かの地」と記した。

そして、「吉田松陰」の生き様にも現れる。
彼が踏む事ができなかった渡航先も「彼の地」である。
多くの弟子たちの反対を押し切って、彼は自らの思いに抗うことなく、
幕末という時代を走り抜けたのである。

彼の思い・・・「彼の血」は、後に明治維新を成し遂げる弟子たちへと受け継がれていったのである。
私の解釈によれば、彼の血は白き花をも赤く染めた「彼岸花」に繋がった。

私は子供の頃より、赤い彼岸花を見ると、「美しさ」と「毒毒しさ」の両方を覚えていた。
古くから、先人たちが「彼岸花」を田んぼの畦道や畑の土手に植えるのは、
野ネズミが穴を開け悪さするのを、彼岸花の球根に含まれている毒性の成分で防ぐためだった。

「世の中を正す」には、世の中に害を及ぼす者たちらにとっては、「毒」をもって制す。

この「毒」とは、実は表現が「あべこべ」であり、「誠」の実行のことである。

瓜生山の「こどもたち」は、この大学を選んだ時点ですでに自らの「誠」を実行し始めているのだと、
私は感じ取った。

なぜならば、自分の思いに素直に生きる「こどもの目」を見れば、わかることである。


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