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「伝」・・・「魂のタイムトラベラー」
2010/12/21(Tue)
私の人生には意味がある。
それは、読者の方々とて例外ではない。

今回の記事は、私が過去に体験した旅の回想から始まるが、この記事の目的は単なる旅記ではない。

旅をすれば、ひと旅毎に新しい出逢いと体験があり、日常の自分では知ることのない「自分」と出逢うことになる。
私の場合、旅の記述を始めると、その記憶の世界があまりにもリアルに再現されるため、
多くのエピソードを事細かく記述する羽目になり、読者の方々を何冊もの本の世界にお付き合いさせることになる。



24歳の夏、私は5日間の休暇を取り、初めて自転車による「ひとり旅」に出た。
高校を卒業し上京して以来、信州の青く壁の様に聳える山々を写真や映像にて目にした時、
それは私を無性に引き付ける「何か」を持っていた。
「信州」という名を耳にする度に名の持つ響きは、私に「ひとり旅」への想いを募らせていた。
そしてその想いは、この旅にて果たす事が出来た。

旅に出て3日目の早朝、私は松本から安曇野へと向かった。
安曇野の地を踏みしめ目の前に続く路を見た時、その路は生い茂る夏の草木の緑に覆われていた。
その緑を食い入るように見つめ続けた時、私は見えるはずのない「日本海」を強く意識し、
そのまま目に見えぬ「存在」として感じていた。
しかし、旅に使える日数は残り2日である。強行したとて東京へ戻ることは望めなかった。
私は緑の中に日本海の幻影を見定め、「必ず!逢いに行く」と想いを放ち、背を向けた。
東京への帰路については具体的な計画など持ち合わせのない旅だったが、
来た路をそのままなぞるように折り返すことだけは「違う!」という明確な答えを私は心の奥に用意していた。

私はハンドルの前に備え付けたバッグに貼った地図を頼りに東へと向かうルートを決めた。
夕暮れの青木峠越えを敢行し、上州・上田にて宿を取った。
残りの旅路は千曲川沿いの旧道を皮切りに、小諸・追分・軽井沢から碓氷峠を一気に駆け下り
前橋へと続く中山道であった。世田谷の自宅に辿り着いたのは5日目の夕刻である。
5日間にて500キロを走る旅を終えた時、私は既に「次の夏」を見据えていた。

この旅を前後して当時の私は、職場への通勤手段を電車から自転車へと変えていた。
決定打となったのは、梅雨入りが間近となった雨の日は「最悪」の満員電車であった。
当時、クルマどころか運転免許をも持っていなかった私が、満員電車から開放されるには自転車しかなかった。

日々の走行距離は75キロであり、日によっては100を越す場合もあったが、ロードレースのチームやトライアスロンのチームを目にすると張り合って走った。
彼らからの「お誘い」には答えられなかったものの、前傾姿勢で走りながら背中には絶えず「日本海」へ向かう旅への想いをしっかりと保ち続け、走りを通して充実している「自分」を感じていた。

一年の月日が経ち、一念を保った私には「25歳の夏とは旅に出る」のは当たり前であった。
しかし、休暇を一週間ほど前にして、私は自らの選択にて旅を断念した。
その頃の私は、職場にて若手の現場チーフとして役割を担っていたが、私が担当する現場へのトラックの運転手は、いつも年上の後輩が担当していた。
ところが、その後輩にも現場を任せる流れが始まった。

「永山さん、俺はいつまでもあんたの運転手じゃねぇんだ」という後輩の一言は、使えるトラックを目の前にしながら今の自分は手を出せないという「現実」と共に、その夏の「旅への想い」の前に大きく立ち塞がった。

私は腹を決め、夏の休暇を合宿による免許取得へ変更した。
3週間の長期休暇は職場に少なからず影響を及ぼし、自ずと合宿所にいた私の下にも社長自らの電話連絡が入った。
「仕事が忙しくなったから会社に戻ってこい」
私は「合格せずには戻れません。ここで戻っては会社にとってもマイナスになる。クビも覚悟の上です。」と、想いを返した。
私からの返事を受けた社長は、笑いながら「全くお前ってヤツはしょうがねぇな。もうわかったから、しっかりやって来い」と、了承してくれたのである。
私は免許を取得し、職場に戻った。想いは既に一年後の夏に向かっていた。


26歳の夏を向かえ私は休暇を取り、再び自転車に乗って日本海を目指す8日間旅に出た。
懐かしさが散りばめられた甲州街道を西へ西へと向かい、高尾山の大垂水峠を越えた先には大月から甲州への笹子峠が待ち構えていた。全長3キロに近い笹子トンネルを抜け出た途端、私は自転車を止めた。仰ぎ見た青い空には、2年前と同じように、真っ白な夏雲が聳え立っていた。
諏訪を過ぎ、信州・松本への関所の如き塩尻峠を越え、松本からは一路日本海を目指し「塩の道」こと千国街道をひた走った。
安曇野を過ぎると緑の木立が続き、私は煌く葉もれ陽の中を駆け抜けた。
冷ややかな沢風が吹く坂道を下り続けると、明らかに潮風を感じさせる糸魚川に抜け出た。
初めて見る日本海が、そこにあった。
暫しの間、私は優しい潮風を浴びながら、穏やかに打ち寄せる波音を聞き、視線を沖へ沖へと移し水面に輝く幾筋もの光の帯を眺めていた。

次なる目的地は定めていなかったが、私は日本海沿いの道を南下することにした。
親不知と黒部を経て、6日目の昼頃まで富山市内を走り、私は日本海に別れを告げ、合掌集落・五箇山へと続く庄川沿いの国道を走り出した。
「目指すは、飛騨高山」である。東京への帰路は、鉄道による輪行である。
山越えの道に峠は「つきもの」だと心得ていた。
標高1290メートルを頂く天生峠は、道中最大の「大峠」となった。

途中、自転車の左ペダルは既に壊れかけ、鍛え込んだ両足のふくらはぎも流石に痛みを訴えてはいた。
これまで幾つもの名だたる峠を越えてきた私であったが、山越えの想いに初めて「弱音」を感じた。
背後を振り返っても、既に幾多の上り坂を避けることは出来ない。
「後戻りの誘惑」の声には説得力がなく、やるべきことは目の前の坂を一つ一つ登るだけだと腹を決めた。

頂上に近づく程に傾斜は険しくなり、前方に見据えたカーブの背後には青空しか見えなくなった。
「いよいよ登りの苦しみから開放されるのか」と私は期待を抱いた。
しかし、ようやくカーブまで辿り着くと、「まあだだよ」とばかりに新たな現実が姿を現し、
「今度こそ」と期待を抱いては幾度も裏切られる峠越えであった。

やがて、なだらかな傾斜の道となり、天生峠は目前にその姿を現した。
私は峠の終わりを確証した時、見晴らしの良い木陰に身を寄せ、腰を下ろした。
仰ぎ見た上空は青く晴れ渡り、その空は日本海へと続いていた。
心地よい冷ややかな山風を浴びながら、眼下に広がる光景を目にした時、そこには私が自らの足で乗り越えて来た幾つもの蒼き山々があり、幾つもの谷があった。
更に目を凝らし山々の中を覗き込めば、「白き光」が星星の如く点在していた。
それは、私が走り抜けて来た「証し」となる幾つもの路面とガードレールであった。谷底に大きく突き出た一本杉が、弱音の「証し」であるように、すべてが私の想いの「証し」であった。

私はこの時、目に写る全容を前にして、「旅こそ、人生そのもの」だと実感した。
気力が満ちてくるのを感じた時、両足の筋肉の痛みが和らいでいる事に気づいた。もう、峠のピークで立ち止まり振り返ることもいらないと思った。
峠のピークを一気に走り抜け、坂を下り続けた。
全身で感じる風を心地よく思えたのも束の間、登りのない坂を流れる風は私の体から急速に体温を奪い続け、凍える風となっていた。
河合村を過ぎると、飛騨高山の街が見えてきた。
街に近づくとは、私にとって「旅の終わり」であった。
それは「次なる旅への始まり」であった。「次の夏」への想いは始まっていた。

旅の回想は、ここまでである。
因みに、翌年の旅については2008年7月の過去記事「平安神宮の風と夏の雲」にて記載している。

さて、
私が回想のなかで、「旅こそ、人生そのもの」とした表現はのちに、「人生こそが、旅そのものである」となり、「人生そのものが、旅である」となった。

ここで重要なのは、誰もが歩んでいる人生という旅の路には、「証し」があるということである。
「証し」は、自らが書き記した自分への「メッセージ」であり、同時に現在自分が目にしている「メッセージ」と照らし合わせれば、自らの人生が持つ「意味」を解き明かすための重要な「鍵」となる。

今の私なりに、私の「鍵」をイメージすれば、らせん状に並んだ「証し」を凝縮して解き明かす「ダイヤル式の鍵」であり、最期に解き明かせるのは、必ず「やったことのある者」である。

このブログ記事は、私が「やり続けている者」として書いている。

やったことがない者は、本当に「自分のため」を思うのであれば、やり続けている者とやったことがある者にやり方を聞き、言われたとおりに実践するしかない。

「証し」の工(たくみ)なれば、・・・その者は「証し工・アカシック」である。
スポーツの記録をレコードと呼ぶが、記述による記録もレコードである。
「証し工」が解き明かし「記すもの」なれば、それが「アカシックレコード」である。

誰にでも「自分とは、何なのか」の答えは、必ずある。

誰もが、自分で思い出せないでいるだけである。

誰もが、思い出すために、生まれ生かされている。


私の旅には、キーワードが散りばめられている。
いわゆる「アトヅケ」であるが、後付けとは跡付けでもあることから察すれば、私が肉体を以って訪れた場所とは、実体験の記憶を「マーキング」していたと云える。
何故なら現在の私が「魂の覚醒」に至るまでの5年間、更に覚醒後に於いても私が訪れたすべての場所にまつわるキーワードは完璧に「意味」を示し、私がナニモノであり、何を成すべきモノなのかを解き明かすツールとなっている。

旅をした当時の私には、この「意図」は全くなかった。
そして私は、結果として日本全国を旅した。
それは、私が日本に生まれた「意味」を知り、活かすためである。

「意図」は、目に見えない「糸」なれば、釣り糸の「テグス」である。
私は、私の人生の「テグス根」を、私の手で引く。



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