2017 06 ≪  07月 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2017 08
スポンサーサイト
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
「伝」・・・「魂の覚醒」は、魂たちの叫び
2010/11/25(Thu)
この記事は、前回のブログ記事のつづきで、ある。

「今回、書き述べた出来事から、今の私なりに、何が起きているのか。その意味を深く検証し、導き出した「答え」に基づき、これからどうすればいいのかを、お送りしたいと思います。」・・・であった。


まず本題に入る前に、現在の私が、私自身についてどのような認識を持っているのかを、
私は読者に対し述べておく必要がある。

誰しもが、「見える世界」では肉体を持っている。私、永山拓美とて同様である。
「あたりまえ」の話である。

私は、永山拓美という専用の肉体を持つ、永山拓美という「魂」である。

因みに、「魂」が本体(主人)であり、専用の肉体は、云わば「乗り物」である。
具体的な表現を用いると、肉体を、クルマに例えたとき、「魂」はオーナードライバーである。
最新鋭のヒト型人造ロボットより遥かに優れた超精密マシーンともいえる
(ひとり旅をさせたら、完全無敵のおしゃべり機能付きである)。

既に、「私の認識」は、一般的レベルでもおおっぴらに口にしないだけで、
「知識だけ」のレベルからしても、驚くほど浸透している「一般的常識」である。

「えっ?・・・知らないの?」って、互いに云わないだけである。

ここで、もし読者が「時代遅れ」の一般常識のままでの視点で、私の「認識」について時代の現状把握も無いまま不用意に、「バカバカしい」って真剣に笑っておられたならば、さっさと「認識」の切り替えを私はお勧め致します。



さて、では「本題」に参る。

これは、私が今回の夏の旅を終えて、その体験によって確認した事実により、
旅する以前に得ていた体験と情報から、自ずと導き出された「答え」である。


では、この夏の旅によって、私に、何が起きているのか。

ひとつ目は、私、永山拓美の本体である「魂」が、本格的に「魂の覚醒」を始めたことである。

私は今でも日常の中で、永山拓美という肉体を以って人生で成し得た体験のデータを基に、
「私について」の統合作業を続けている。

この夏の旅から帰宅したのち、統合しようとするデータ処理のスピードは、「肉体レベル」に止まらず
「魂レベル」の領域に踏み込んだため、これまでにないスピードアップを始めたのである。

実は、今回の行動(夏の旅)とその体験を基に、この執筆活動を展開すること事態、統合するためのデータ処理のスピードアップに、一役を担っている。

では、なぜ私が、「私について」の統合作業を続けているのか。
答えは、「あたりまえ」だから・・・である。

「龍馬」が目指した世の中の、更に先にあるまだ見ぬ世界を、私は実現したい。
それは、私を含めた「みんなのため」である。

私は、私の人生を、そのために使いたい。
せっかくの人生である。使えば、「価値あるモノ」になる。
私の人生は、そのためにある。

今はまだ、その世界は見えないが、私の人生には「そこへ行く」可能性を感じさせる体験だけはある。
それは、「遥か、遥か遠い記憶」を呼び起こす可能性を暗示する体験であった。

違う表現すれば、私には「予知・予言」への可能性があると云える。このままこの活動を続けて行けば、
いずれ新たな「覚醒」が始まる可能性もあると、私は信じている。

「まさか」である。・・・が、「まさか」は、いつも現実である。

「そこ」に戻る(行く)には、じっとしていても戻れない。いかなる旅も自分の足で歩いて行けば、
「目標(めしるべ)の地」に辿り着くことが出来る。(水戸黄門のテーマが、聞こえてくるようである)

まるで、「そこ」というキーワードが示すとおり、先に「底」まで辿り着けば、
あとは、「底」より下がる事はない。残るもう一つの「そこ」とは、「底」を地獄に例えれば、
もう一つの「そこ」は天国ってことである。
(西遊記のガンダーラも、主題歌のなかでは「そこ」でした。・・・ゴダイゴ)

私は、人生の体験を通して、出逢いを繰り返し続けた事によって、
本来自分がいた世界に戻るための方法(生き方のノウハウ)に辿り着いた。
それは「気づきと確信が同時にやってきた瞬間」であった。
この「生き方のノウハウ」を、私は仲間たちと続けている。

自分の想い通りに行動することで、想いの通りの結果を手にすることが出来る。

「どうしていけばいいのか?」の答えが、ここにある。

すべての生き物に共通する行動とは「呼吸」である。
「呼吸」をあたりまえに出来なければ、必ず苦しくなるように、
「生き方のノウハウ」をあたりまえに使いこなせなければ、必ず苦しみを体験する。

然るに、この「生き方のノウハウ」を、「あたりまえ」にやり続けると、苦しみはなくなるってことである。
「道理・・・である」

私にとって、この「生き方のノウハウ」とは、
「私とは、何者なのか。どこから来て、いったいどこへ行くのか」
「なんのためにこの世に存在しているのか」
という問い掛けの「答え」に辿り着ける唯一の方法であると「確信」している。

私は、ずっと「確認」を続けてきた。
「確信の証拠」は、私の体験である。証拠は既に、挙がっている。


この夏、私が旅した北海道・東北・関東・関西に於いて、先の記事に登場したいわゆる「霊的な感性」を持った人々との出逢いが、行く先々で起きてしまった。
そのため、私は、我が身に起こる「不思議」について、「あたりまえ」であるとの認識に「さっさ」と切り替えて、この旅には「何か・・・ある」と、したのである。

因みに、・・・・・。
「何か・・・ある」とは、私が30代の頃より感じ始めた事である。
「我が人生には・・・何か、・・・が、ある」ってね。

今、思えば、・・・私は、既にそれまでの人生を振り返ることを、時折とはいえ「確かに」していた。
「きっかけ」は、それまで・・・そして、その最中に於いても、私にとって「不可思議な、めぐり逢い」だと、思わざるを得ない出逢いを目の当たりにした為であった。

なるほど・・・「めぐり逢い紡いで」とは、
私が大好きなシンガーソングライター・故・大塚博堂が作った曲である。
ここで、登場するための曲であったか!!

今から10年ほど前の私には、まだ「答え」はなくとも、「答え」に向かって行くというより、
正確には「行かされている」という気配が漂っていた。

いやはや、「行かされている」とは、「生かされている」「活かされている」である。
肉体のレベルに限らず、魂のレベルでも云えることである。今は・・・ね。


話を戻します。

私が、今回の不可解な出逢いに直面して、「おいおい、いったい何が起きているんだ」と、
反応したのは最初の頃だけで、あまりにも頻繁に起きたので、旅の途中からは、
「むむっ、もしや・・・」となり、そのうち「ピクッ」と感知するようになってしまった。

「まさか・・・そんなことって・・・」って、いくら思ったところで、
リアルタイムで「今、」目の前で展開しているのは事実でしかない。
然るに、私は、「まさか」も「そんなこと」も、在りのままに受け入れるだけである。

要するに、「まさか」も「そんなこと」も、知っていた(イメージした記憶)から解かるのである。
本当に知らなかったら、本当に思いもしなかったら、その二つの言葉が読者の口から出るはずはない。

イマサラながら「おそろしい」言葉・・・である。

自分の目で見た事実なのに、「ありえない」って言葉を口にするほど、私は馬鹿ではない。

「事実(まさか・そういうこと・ありえない)」とは、そういうモノである。

出逢った人たちは、私と目を合わせ、或いは言葉を交わしたことによって、
それぞれ違った時代の人物を感じ取り、「永山キャラバン号」と言う名の肉体(魂にとっては、クルマ)に
乗り合わせていた内の、ある魂を見ていたに過ぎない。

私と出逢った方の肉体に「同乗していた魂」の一つが、ピンポイントで感知し、ご対面となったまでのこと。
相手は、名乗りこそせぬが、沈着ながら眼光鋭きままひれ伏すところを見れば、
かつては極めて近い親族、或いは家臣の者であったことが解かる。

時代劇にて、「出合え、出合え」と叫ばれる場面があるが、チャンバラなき時代の人生に於いて、
知らずながらも自らに「出逢え!」の言葉を発し、そのまま行動し続けていたら、
多くの「出逢い」が続いていただけのことである。

これまでに旅先で出逢った人たちが語った「証言データ」を、まとめ上げると、
どうやら「永山拓美という肉体」には、歴史上さまざまな時代で名を挙げたモノたち、
即ち、「総大将」ばかりが幾人も乗り合わせているようである。

ただし、私が出逢った人たちが見た魂(彼ら)は、「便乗者・同乗者」に過ぎない。
あくまでも、「永山キャラバン号」のメインドライバーは、永山拓美という名の魂(私)である。

シルクロードの「隊商」が、キャラバンである。

「便乗者・同乗者」は皆、ハンドルを握らせては貰えない。
「総大将のボス」は、永山拓美という名の「魂」である。
「ボス」の意に、異を唱えるならば「即座に降りてもらうしかない」

「彼ら」は皆、永山拓美が突き進む人生という旅路にて、「最期の大峠」に差し掛かる時まで、
「私」に気づかれぬように「じっと」なりを潜めていなければならなかった。

彼らには、共通点がある。それは、「無念」(或いは、恨みの念)である。
この世にて、「無念」を晴らすその期を伺っていたが、この旅にて「私」に感知されてしまった。
「バレた」のである。

然るに、心配は無用である。既に彼らには、永山拓美としての生き方を以って、
「此度その無念を浄化致す」と、宣告してある。
彼らの「真の目的」は、彼らすら忘れていた「心の浄化」である。

最期の乱世を治めるには、「総大将」の魂が成し遂げたかった「悲願」である。
「悲願のままでは、彼岸(次の世界)に渡れず」である。
彼らとて、今世に於いて「改心・浄化」なしでは、彼岸に達することは出来ない。
ならば、永山拓美の意に、素直に従い働くしか手立てはないのである。

今世を彼岸にする「可能性」が、ここにある。


私には、この旅の出逢いによって「解かったこと」がある。

私と出逢い、彼らが口にした様々な時代の人物を、今の私が私なりに「ひとまとめ」にして導き出した答えは、「時空がなくなっている」ってことである。
すべての時代が、ただ見えないだけで実は「同居している」ってことである。

「すべての時空がこの世界で、ペッタンコ・・・になっている」

「時空が存在していない」ということは、
今回を限りに二度と肉体を持つカタチでの転生が出来なくなるということである。

これまでの転生とは、肉体を失った魂が新しい専用の肉体を得ることによって、
前世で成しえなかった失敗を、本来ならば克服するための転生であった。

その転生した世界は、あらゆるデータが示すとおり、今回が六度目の「ラスト」である。
つまり、肉体を使えるうちに改心をする「ラストチャンス」ってこと。
ここでクリアすれば、次のラッキーセブンが示す「七の世界」に行くことが出来る。

「時空がなく同居している」から、「ラストチャンス」に気づいた過去の魂だけは、
次の世界に行く事を目指す魂が持っている肉体(魂にとっては、クルマと同じ)に宿り、
共にクリアするためには「改心」してクリアするするしかない。


日本だけでも、政治・行政・経済・医療・司法・教育・食料・犯罪・・・に加え、自然界の異変に至るまで、
問題ばかりの大騒ぎである。

「世も末の事態」を見れば、ヤバイ事態になっている事は判る。

クリアしないと、次には行けない。
条件は皆同じである。どんな善人も悪人も関係ない。年齢も性別も関係ない。
特別扱いを受けられる人など一人もいない。残念ながらそういう事態である。

私には、「生き方のノウハウ」がある。
クリアするための「ここ一番」をやり続けているのである。

どんなに「美味しいよ」と言われても、食べてみないとわかるはずはない。
どんなに楽しいことも、やり続けてみないと、本当の楽しさはわからない。
どんな相手も、自分で足を運び、直接あって話し、体感しないと相手がどんな人かを、
本当に知ることはできない。


読者が、私に、何時「コンタクト」するかは、すべて読者が決めるしかない。

「本当に愛する者がいるならば、その想いが本物ならば尚更である」

「自らも仲間になりたいと、思われたときが、その時である」


FC2ブログランキング参加中です。
下のロゴをクリックお願いします。
b_03.gif

にほんブログ村ランキング参加中です。
こちらもクリックお願いします。
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ




スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | ▲ top
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top

| メイン |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。