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「告」・・・私が体験した裁判の実態
2010/07/04(Sun)
これは「裁判」ではない。裁判という名のゲームである。


私は、この事件を通して裁判というものに初めて関わった。

それまでの私にとって、裁判とはテレビドラマや映画の中の出来事でしかなかった。あとは、ニュース番組の情報くらいであった。

私が見たこの裁判は、被告人を裁いている場ではなかった。

私が体験した裁判とは、法廷にて検察側の論理と弁護側の論理を並べて、どちらが論理的なのかを、3人の裁判官が「多数決によって決めるもの」であった。つまり、3人の裁判官のうち一人が無罪と判断しても、あとの2人の裁判官が有罪の判断ならば、被告人は「犯罪者」となる。被告人だけが知り得る「真実」などそっちのけである。

一審の裁判官は、法廷に入るまで「事件」の内容も、被告人の生い立ち・人格・環境・信条についての予備知識を持たせては貰えないのである。いきなり、目隠し状態で入廷したばかりの裁判官が如何に優秀な人たちであっても、短時間で真実を判断する場にはなっていない。裁判官が偏った「先入観」を持たないようにとの理由からだが、これは起訴した検察側にとって裁判官が予備知識を持つことが好ましくないためであり、検察側が起訴理由を述べて証拠を裁判官が初めて目を通した時点で、裁判官には「先入観の苗」が植え付けられる。
被告人と弁護側にとっては不利なスタートルールが存在している。
一審に於いて「公平な裁判」とは、存在しない。

検察側は、頭から「犯罪者」であるという「答え」に行き着くためだけにエネルギーを使う。これは、警察での捜査段階から続けられている。検察側は起訴した立場上、被告人に有利な証拠は邪魔であるため立証するためには証拠を、継ぎ接ぎ加工する手段(トリック)も使う。被告人の真実がどうであるかは関係ない。
「犯罪者」に仕立て上げなくては、その存在理由が成立しない。
法廷での検察官は、上司の指示通りに実行するのが仕事である。もし、個人的に嫌な質問でも指示通りに務めなければならない。手や口元に振るえが出るのも致し方ない。良心の呵責は、態度に出る。

検察側は、被告人が真実を語ることより、被告人の思考を意図的に混乱させるための言葉を駆使していた。検察側にとって有利な展開に持ち込むためには、原付免許の「ひっかけ問題」並みの質問を法廷で行っていた。

被告人は、検察側の質問内容が理解出来ない(ひっかけ問題・時系列がバラバラ)場合、検察側に対し質問の意図を確認することが出来ない。しかし、この裁判では検察官の質問がわざと意地悪く難解なため、被告人から質問に対する質問が出された。検察官は、「質問しているのはコチラ側です」の言葉で被告人の口を塞ぎ、期待通りの証言が出ないので、「では、次の質問に変えます」で、擦り抜けた。

検察側は、被告人だけしか知りえない真実を、本当に知りたいのではなく、「真実は兎も角」自分たちの起訴理由が立証できれば良いのである。文法的に誤った日本語での質問の仕方が露呈するため、同じ質問を続けることが出来ない。一発勝負であるため、早口での質問も行う。

検察側の質問は、被告人に「故意・殺意があったかどうか」に始まり、次に「死への認識があったかどうか」に移り、「反省しているかどうか」の質問へと変わる。どれも、被告人が「犯罪者」になるように導くためのやり方である。

他の事件で、被告人が犯行を認めている場合でも、刑を軽くするため「殺意・認識」を否定し、反省の態度を繕うことは出来る。反省していると裁判官が信じるか信じないかで、判決が変わる。無罪を訴え続ける被告人に「反省の色がない」からの理由で刑が重くなる。反省とは、その場凌ぎのこと。
個人によっては、反省の態度を示した被告人が、再犯を繰り返す。つまり、反省しているかどうかは、意味のないことである。

実は、検察官も裁判官もその事を知っている。けど、その場限りであるから、いっぱいある裁判の中の一つに過ぎないから、気分次第で仕事を消化するだけ。

「反省だけなら、猿でも出来る」・・・反省している被告人を猿扱いである。
(また来いよ。いつでも遊んであげるから・・・である)

「改心」なくては、同じ過ちを繰り返す。



この裁判は、「生と死」という人の命について審議しているのに、真実には無関心の姿勢である。私は、テレビドラマ「ヒーロー」で木村拓哉が演じた検察官とは「程遠き」検察官の実態を目の当たりにした。ドラマのような検察官は、北か南の端っこで、スルメイカの盗人探しをさせられているのである。

被告人にとって、法廷での発言は検察官・裁判官・弁護人からの「一問一答」形式であり、3者からの質問に答えること以外許されない。法廷にて被告人自ら真実を語るための自由は「剥奪」されている。本当に真実を語り無罪を訴えたい被告人にとっては、目には見えない「猿ぐつわ」を取ったり付けられたりされ続ける「拷問」に等しき場である。

因みに、法廷にて傍聴人は、如何に検察官・裁判官・弁護人らの言葉・行動に対して「おかしい?」と思っても、「法廷侮辱罪」という制限があるので、発言できない。「ちょっと、待ってください」の言葉を飲み込まされるルールがある。
私は傍聴席で、「えっ?」と思うような発言を幾度も聞く体験をした。柵の向こう側のエリートたちが、言葉を巧みに操る恐ろしい事実に、私は正直驚かされたのである。


インターネット上にて、「裁判の起源」を調べると子供向けに判り易く挿絵があり、「昔、裁判官の仕事は権力者の仕事の一つであった。罪を問われた若い娘が有罪か、或いは無罪かは、煮えたぎる熱湯に手を入れてヤケドしたら有罪」であった。「無茶苦茶な時代があったものだ」と呆れ笑うのは簡単なこと。
この話の本質は、裁判とはそもそも(起源)、時の権力者が脅しのため真実はどうであれ、犯罪者に仕立て上げることから始まっている。ゲームである。

現在までに、治安を守り国民の生命・生活・財産を守るためとの名目で、多くの法律が作られ、そして法律は増え続けている。しかし、犯罪者は増え続け、無くならないのはなぜか?

裁判の根底にあるものは今も、起源に書かれているままである。

「まさか」であるが、「真逆(まさか)は、いつも現実」である。

この話、いつまでもボケボケの方には判らぬ話である。

「ゲームオーバーの時は近い」ことさえ判ってやっているのが法曹界である。


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