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火祭りのいいつたえ・3 「彼岸の風」
2008/12/01(Mon)
京都は歴史の街である。

京都は、奈良の都がこの地に遷都される際、大陸から来た「秦氏・はたし」という、
土木技術者の集団の手によって造られた都である。
そして、この街を流れる川も彼らの「手」による作品である。

前回のつづきである。


あの「大文字・五山送り火」の出会いから一ヶ月余りも過ぎた頃、すでに暦は「彼岸」を迎えていた。

9月に入ってからの私は、日々のスケジュールの中で少し焦りを覚えていた。
昼過ぎに、大学へ連絡を執ったところ、あいにくK氏は多忙らしく外出中だった。
ただし、夕方の17時から18時までは、大学内に戻られていて私の訪問は「大丈夫」とのことだった。


私は、大学との電話を終えると、京都市内の地図を開き、K氏の名刺に書かれた住所を頼りに大学の場所を探した。
なんと、である。大学は京都盆地の東に連なる山の北側、あの「大文字山」の北隣りの瓜生山にあった。
昼も2時を回り、私は自宅での仕事を終えると、秋晴れの街へ自転車を走らせた。

私には、もうひとつ行きたい所があった。「粟田神社」である。
鞍馬口通りを抜けるルートの途中、左に見えた高城邸をちらりと横目で流す。
あの「五山送り火」の出来事がそのまま今この瞬間も続いているのだと、頬に感じる秋風が教えてくれているようで嬉しかった。


賀茂川にでると。いきなり視界が開け、嬉しいことに遥か前方に「大文字山」が見える。
鞍馬の橋の中程で立ち止まり、川下を眺めたまま視線を頭上に移した。
和らいだ日差しと川沿いを伝う「彼岸の風」を、なんとも心地よさそうに捕らえて飛ぶ二羽のトンビの出迎えを受けた。

     昨年の九月から、もう一年間も空を飛んでいない。
     しかし、16年の間に私の身体に染み付いたハンググライダーの感覚は
     頭上の「先生たち」の腕前を眺めるだけでも楽しむことは出来た。


私は、川沿いの風を味わいながら、粟田神社を目指した。
川端通りを南下して交差する三条通りを東に折れ、暫らく走ると、ゆるやかな上り坂が始まる。
前方に見覚えのある風景が見えてきた。
それは二ヶ月前のあの暑い夏の日の午後、街頭活動のため仲間たちと訪れた
平安神宮へ向かう神宮道の始まる交差点だった。


交差点の先、100メートルほど坂を登った右手に古びた鳥居が見えた。
鳥居を潜ると、右手前方に小さな自転車溜まりが目についた。
先客たちに「右へ倣え」と自転車を置き、それなりに歴史のありそうな狭い石畳を進むと、
路の傍らには、何やら意味ありげに植え人知らずの白い彼岸花が咲いていたのである。

     (私は、植物図鑑で白い彼岸花があることは知っていたが、直に見るのは初めてだった。)

二つ目の鳥居と登りの石段から、神社の本殿が高台にあることを察する事が出来た。
鳥居の袂に掲示板があり、よく見ると手作りの「ねぶた」らしき図柄のポスターがあった。

     「ははあ、これだな」いよいよ・・・である。

石段にかぶさるように成長した桜並木の根元には、今度は赤い彼岸花である。

     私は、石段を踏みしめながら思った。

     「京都に来たのに、ねぷたは私をはなれない」
     と云うよりは・・・「私が、ねぷたを放さない」と言った方が正しい表現である。

     そうでなければ、私がこの行動を選ぶこともない。
     私が求めたもの、心の奥で強く望んだ「ねぷた」への思いが、今も続いているのである。

     この時の「現れ」・・・つまり私に起こる「現実」とは、私が常々口にしているセリフだが、

     「すべては必然」であり偶然ではないことを証明している。

ようやく・・・である。石段を登り切ると、神社の境内は清々しい風が、

             「よう、参られたな」・・・との、出迎えである。

いつの間にかバッグを背負ったシャツの背に薄っすらと汗を掻いていたことを、
粟田神社の「神風」が教えてくれていたのである。


石段の上がり口の袂に「灰皿」が見えた。
ひとまず、タバコを一本取り出し、「いっぷく」・・・である。
煙の動きが実にいい。風の流れを充分に楽しませてくれるのである。
煙を目で追うと、社殿の傍らから、眼下に広々とした京都の市街地が見えた。
そして遥か北西の山に目を凝らしてみると、「左・大文字」の姿を臨むことが出来たのである。

     ふと、私は思った。「ふたつの大文字は・・・向かい合っているやも」・・・と。
     
     まるで「鏡写し」とも採れる。それが何なのか?いやはや、京都の歴史は深いのである。


それはさておき、粟田神社に来た目的は「ねぶたのルーツ」と、うわさの「ねぶた祭り」である。
社務所の窓口に白衣を着た年長の男性の姿があった。

私は、挨拶をしてから口火を切った。

     「こちらの神社で近々、ねぶた祭りがあるとの話を聞いてきたのですが」
     「何か頂けるねぶたの資料はありますか?」

     しかし、「ええそうですが、詳しいことは解かりませんなぁ」と、いまひとつの反応であった。

すると、社務所の左隣にある松羽目を配した能舞台の脇で作業をしていた若い職員らしき男性が、
いささか訝しげな感じで現れた。
私は改めて、名刺を差し出し「私とねぷたの関わり」と「私の知りたい事」を話した。

     私は、「あたりまえ」の基本を思い出したのである。今思えば、とほほ・・・である。

若い職員の方は表情が変わり、にこやかに粟田神社とねぶたの関わりの丁寧な説明を終え、
「ちょっと待ってて・・・」と言い、彼の姿は社務所の奥へ消えた。
社務所の奥から、プリンター?らしき音が聞こえてきた。
     
     私は、彼の対応に”嬉しいびっくり”・・・である。

一枚の資料と、神社のパンフレットをもらう事が出来た。
そして、石段下の掲示板にあるユーモラスな「ねぶたのポスター」は、
なんと彼の手作りであり、まだ仮のデザインとのことを聞き、またまた笑顔の交歓となった。

「是非、ねぶた祭りに来て下さい」という見送りの言葉に、
私は「はい。必ず」のあとに礼を述べると、粟田神社を後にした。

     180年ぶりに復活する京都のねぶた祭りに
            「私は参加したい!!」

ふたつの鳥居を潜ったあと、私は思い出の地・平安神宮の大鳥居を抜けると、
一路「瓜生山」を目指したのである。

岡崎の山を横切り京都大学の正門前に出た。
私は自転車を停め、K氏へスケジュールの確認を取った。結果はOKである。
K氏から、耳に覚えのある明るい声の、「喜んで、お待ちしています」が聞こえたのである。

      (いよいよ・・・である。)


目の前には京大の美術部などの看板に並び、ハンググライダーの機体がそのまんまペタンと一機、看板として壁にくくられていたのだ。
     
     私のしてきた「空への思い」も、しっかり現れることを示しているのだと思えた。
     この時、京大ハング部の学生たちとも
     「会いたい」の思いが湧いてきたのを感じ始めていた。


    

京都造形芸術大学のキャンパスは、瓜生山の斜面に張り付くように広がっていた。

正面入り口からして、いきなり「大階段」なんて・・・私は見た事ない。

大階段上にそびえ立つ校舎の屋根下には、すでに幾つもの製作途中の「ねぶた」が見えていた。


受付を通してK氏と会い、一時間の案内を受けることとなった。
大階段の上からは、夕陽を浴びた京都の街が一望出来た。

K氏は、にこやかに一言。
     「永山さん、ここから眺める夕陽が、京都では一番なんですよ」
     (たしかに、・・・である。)
K氏の肩越しの先には、夕陽をカメラに収めようとする学生の姿があった。


キャンパスのいたる所では、屋内・屋外を問わず思い思いの形をした「ねぶた」の製作風景が見られ、何処も真剣に取り組む学生たちで活気で賑わっていた。


見るほどに、確かに私の関わってきた「弘前ねぷた」とは、
形も内部構造も全く違うものばかりである。
しかし、ハリがねを組む者、ひたすら紙を貼る者、電気を仕込む者、
大工仕事を担当する者などなど・・・皆この春、この学び舎に集った「若者たちの目」は、
嬉しいほどに「いきいき・わくわく」の輝きに満ちていた。

私は、K氏に思ったままを語った。

     「いいですねぇ。みんな子供の目をしているのが、なんともいいものですね」

     「・・・で、しょう」と、K氏は笑顔で答えた。


彼らの「目」は、私が永年に渡り関わった「必殺ねぷた人」のねぷた小屋で幾度も目にしていた
「こどもの目」だったのである。

     思わず私も仲間に加わり、手を出したくなる・・・そんな思いでいっぱいになっていた。



K氏の案内の途中、キャンパス内のやたらと長い斜面の高台の一角に、「幕末・安政の大獄」
で命を落とした「吉田松陰」の像があった。

     「なぜ?松陰の像が?」との私からの問いにK氏は答えた。

     「なんでも、この大学の理事長の意向とのことです」



   吉田松陰と言えば、長州藩・萩の「松下村塾」である。

   10年前の夏の旅で、私は「彼の地(かのち)」を訪れている。
   そして、幕末史にその名を残す「松下村塾」の以外に小さな建物に、
   高杉晋作・伊藤博文を始めとする松陰の弟子たちが、「すし詰め」状態で学んでいたことを
   知ったのである。

   吉田松陰とは、「旅の男」であり、外国を知るために渡航をを試みたが、
   「彼の地」には渡れずとも、命を懸けて自らの思いに正直に生き抜いた男である。


時刻は6時を回り、私たちは再び大階段の上に戻った。
私は、この日の礼を述べるた。

     「是非、オープンの日にも来て下さい」

     「はい、ありがとうございます。必ずお伺いさせていただきます」

K氏と私は、「じゃあ、また」の言葉を笑顔にのせて別れた。


私は、まだ作業を続ける学生たちの姿が気になり、そのまま帰るのをやめ、
幾人かの学生たちとの、会話が始まった。

     極力、私のこれまでのノウハウは目の前の彼らには「余計なお世話」であり、
     初めての「ねぶた作り」の試行錯誤を楽しむ機会を奪いかねないと踏んだ。

     ただし、・・・である。

     昨年のねぶた作りで「味」をしめた二年生たちには、
     ちょろっとだけ「ヒント」になる程度のことを言うだけで治めた。

彼らは今年の粟田神社の「ねぶた祭り」で運行するねぶたを作っていたのである。

前年の800人の経験者の中にあって、今年も自ら志願した25、6名の学生に
数名の職員が混ざった「ねぶた部隊」であった。

     ねぶた作りも二回目ともなると、さすがに美大生である。

持ち前の「センス」と「こだわり」は、作品と作りに没頭する姿が重なり合う「絵」であり、
見ているだけでも嬉しいものである。

     やはり彼らも、私の大好きな「こどもの目」を失ってはいないのである。

方々で片付けの動きが見えてきたところで、私は自宅に帰る事にした。


私は大階段の上に暫し立ち止まり、前方に広がる夕暮れの京都の街を眺めた。
京都市街を跨いだ西の彼方に、「左大文字」の黒い山陰を辛うじて見ることが出来た。


仰ぎ見た瓜生山より吹き降ろす山風は、私と「こどもたち」の間をいつまでも舞っていたのであ
る。

次回へとつづく。

追記  12月1日(師走の始まり)

記事の中の「彼岸」が、私にまとわり着いたのは、「気のせい」だろうか?
「彼岸」とは・・・向かい側に渡る。・・・である。

この日、私は賀茂川を対岸に渡り、「彼岸花」を目にし、
京都の街を隔てて東西のふたつの「大文字」が向かい合うのを見た。

かつて、京都盆地は「沼地」であった。つまり、ふたつの「大文字」は、互いに向こう岸にあったと言える。

吉田松陰の像も見たであろう左大文字の黒い「山陰・やまかげ」は、・・・山陰(さんいん)。
彼の故郷は「山陰地方」の山口県萩市・・・その萩を、私は「彼の地・かの地」と記した。

そして、「吉田松陰」の生き様にも現れる。
彼が踏む事ができなかった渡航先も「彼の地」である。
多くの弟子たちの反対を押し切って、彼は自らの思いに抗うことなく、
幕末という時代を走り抜けたのである。

彼の思い・・・「彼の血」は、後に明治維新を成し遂げる弟子たちへと受け継がれていったのである。
私の解釈によれば、彼の血は白き花をも赤く染めた「彼岸花」に繋がった。

私は子供の頃より、赤い彼岸花を見ると、「美しさ」と「毒毒しさ」の両方を覚えていた。
古くから、先人たちが「彼岸花」を田んぼの畦道や畑の土手に植えるのは、
野ネズミが穴を開け悪さするのを、彼岸花の球根に含まれている毒性の成分で防ぐためだった。

「世の中を正す」には、世の中に害を及ぼす者たちらにとっては、「毒」をもって制す。

この「毒」とは、実は表現が「あべこべ」であり、「誠」の実行のことである。

瓜生山の「こどもたち」は、この大学を選んだ時点ですでに自らの「誠」を実行し始めているのだと、
私は感じ取った。

なぜならば、自分の思いに素直に生きる「こどもの目」を見れば、わかることである。


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