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「告」・・・法律の中の「トリック」
2010/08/17(Tue)
私は子供の頃から泣き虫で、高校時代でも腕に覚えのある者たちに絡まれた時、ビビリンチョで
時には半ベソ状態だった記憶がある。
要するに「いじめられっ子」だったのである。

ただ、よく考えてみると、私が本当に怖かったのは相手ではなく私だった。
私は、自分が「ブチキレル」ことを心の奥底で、最も怖れていたのである。

私は、幼き頃から自分で自分の力を過小評価していた。そうすることで、被害者の立場になることはあっても、加害者の立場に立たなくていいように生きてきたとも云える。そう考えると、私をいじめた者たちは実は私のした事の「被害者」と云える。
当時の私は、そんなことを考えられなかったのである。

たしかに、私には相手をいじめるという想いはなかったし、いじめっ子ではなかった。
今の私は、当時のそんな自分を許している。当然ながら、私をいじめていた者たちに対しても、許している。
高校時代の私が、一部の者たちの言動や面構え・服装といった一面だけを捉えて、
勝手に「やばい連中」というレッテル(思い込み・先入観)を貼り付けた愚かな体験が、今、この記述に活かされることになった。

読者のあなた、あなたに「先入観」はありませんか?そして、トラブルは・・・ないですか?



さて、本題に参る。

私はこれまで、たとえ事実であったにせよ検察官・裁判官について非難する思いを抱いていた。よく考えてみると、この私が抱いた思いは、私としても「おかしい」と感じる。私自身、彼らについて「先入観」を持った視点で、この裁判を考えていた。彼らの置かれている立場・状況からみれば私は「いじめっ子」でしかない。この事については、お詫びせねばならない。

事実、検察による起訴に至るまでの経緯については、「誤解・思い込み・先入観」の連鎖によるものである。
しかし、起訴に関わる「法律」そのものが事態を後戻りさせない状況へと深めていく「原因」である。下記は、その証拠である。

この法律が有る限り、検察官と裁判官は「法律を守る立場」の者として、当然ながら法に沿って職務に臨まなければならないのである。
無罪を訴える被告人にとっては、怖ろしい法律である。

刑事裁判のスタートは、検察官が裁判所に「起訴状」を提出することから始まる。
下記の記述は、ネット上に公開されている資料の転載である。
(いささかお堅い文面なので、2ブロック目の「起訴状一本主義」のほうが、御理解しやすいかと思います。)


「公訴の提起」について

公訴の提起は、裁判所に起訴状を提出してする(刑事訴訟法256条1項)。起訴状には被告人の氏名、公訴事実、罪名を記載しなければならない(同条2項)。公訴事実は訴因を記載し、できる限り日時、場所及び方法をもって特定しなければならないとされるが(同条3項)、このように訴因主義を取ることで、審判の対象や被告人の防御範囲を限定できるメリットがある。また、裁判官に予断を与えるのを防止するため、起訴状にそうした予断を来すおそれがある余事記載や、証拠その他の書類などを添付することは許されない(起訴状一本主義と呼ばれる。同条6項。なお、これに違反した起訴は同法338条4号により公訴棄却となる[1])


起訴状一本主義 [編集]

公訴提起に際しては起訴状のみを提出し、証拠を提出してはならないとする原則(刑事訴訟法256条6項)。事件を担当する裁判官に対してあらかじめ被告人を真犯人と決め付ける予断を与えてはならないという、予断排除の原則と有機的に結びついている。万が一にも起訴状以外の証拠が裁判官の目に触れた場合、その刑事訴訟は終了することになる。ひとたび予断を抱いた裁判官の記憶を消し尽くすわけにもいかないからである。

以上、転載終わり。


私は上記の記述を目にした時、裁判の入り口とも云える起訴(公訴)の段階において、
この法律に被告人が不利となる「トリック」が仕込まれていると思った。


あくまでも、法律に関して素人同然の私なりの解釈だが、「トリック」とは思い込み・先入観のことである。
条文では、あたかも裁判官が被告人に対して真犯人だと「予断=思い込み・先入観」を持たないようにするための法律になっているかにみえる。しかし、よく読みこめば「おかしい」ことに気がつくのである。


一審の場合、裁判官は「法廷に入るまで」事件内容を見せてもらえず、被告人および事件関係者と接触することを禁止されており、要は「目隠し状態」で法廷に臨むのである。確かに、この時点では裁判官は被告人が真犯人かどうかを判断出来るはずもない。ところが、裁判官は法廷に入った瞬間、被告人席にいる被告人に対し、どんなに偏見を持たないように努めたとしても、第一印象として「犯人の可能性がある者」という見方が始まる可能性を残している。

次に、公判の始まりに裁判官は、検察側から被告人が真犯人である事を満たそうとする「起訴事実および証拠」を初めて目にする事になる。この時点に於いて、「起訴一本主義」の効力は無効となる。つまり、意味の無いものとなる。

私はこれを「イカサマじゃねぇか」と捉えた。

つまり、検察側は被告人を起訴した以上、裁判官に「真犯人だ」と思ってもらわねばならない。その為に検察側は最大限、被告人が「真犯人」であるための視点に立った事実集めと証拠作成に努める。
今回は、裁判官に強烈な印象を植え付ける巧妙な継ぎ接ぎの証拠が提出された。この時、「ひとたび、予断を抱いた裁判官の記憶を消し尽くすわけにもいかない」事態のスイッチが「ON」になるのである。見せられた証拠が、裁判官にとって強烈な印象であればあるほど「先入観」を深める効果をもたらすのである。

今回、検察側が提出した「継ぎ接ぎの証拠」とは、被告人である母親が亡くなった乳児の状態について書き残したメモと、携帯電話の映像録画による記録である。
「うりちゃん、ミイラ化。まー、涙止まらず」と書かれたメモの、同じ日付の映像記録に写っていたのは「ふくよかな状態の乳児の姿」であった。その数日後の映像記録は、「引き締まった体の乳児の姿」なのに、検察側は「痩せ細ってミイラのような姿」と捉え、つじつまが合わないけど、メモと数日後の映像記録をセットで証拠としたのである。
(因みに、うりちゃんとは乳児のこと。まー、とは母親のこと)

母親は、警察署・検察庁での取り調べの際、書き残したメモの説明として、ふくよかな乳児の我が子を見ている時に、飢餓に苦しむ赤ちゃんの姿が脳裏に浮び、シングルマザーたちが嘆き苦しむ姿が脳裏に浮かんできたために、涙が止まらなくなったことを、自分なりのメモの「キーワード」として、書き残したことを言い続けたが、調書からは削除されたのである。
(このブロックの私の記述は、母親が実際に語った説明と、一言一句同じではない。念のため。)


事実、世の中には「ありえない」とすることが「ありうる」し、幻覚とは異なる説明しがたい体験をしている人が存在する事実は、テレビ等でも一般化した話として知られている時代である。私自身、目を閉じてアイマスクをすると、何かを象徴するような映像を見る体験をしている。芸術系の仕事をする人々と出会い話をしたとき、同じ体験者がいることを、私は何度も確認している。


兎にも角にも・・・である。
この時点で裁判官は、「トリック」によって検察側が提示した・・・事実と、証拠によって、「予断=先入観」をしっかり植えつけられた可能性が高いのである。


話を戻す。

被告人は、法廷にて検察官・裁判官・弁護人から質問されたことしか答えられない。つまり、それ以外の主張を自由に述べることが認められていないのである。ただでさえ圧倒的に不利な条件の場所が、法廷なのである。

裁判官は、「超・頭のいい人たち」である。

「人が人を裁くことは、本来間違っている」ことを、十分に知り尽くしているはずである。

彼らは、「人として」の立場に立ち戻った時、その苦しみを溜めに溜めきっているとしか思えない。
検察官と裁判官は、現行の法律を守る立場である以上、この法律を検察官と裁判官が自ら変えることは出来ない。

現行の、この法律が有る限り「真実を訴える被告人」にとって、起訴をされた時点で怖ろしい事態が始まるのである。


変えるは、国会議員による議会での「法改正しかない」のである。


読者のなかで、この記述の「法改正」に取り組まれている国会議員を知る方がおられたなら、ご紹介頂きたい。
通常の法改正と異なり、国家権力に関わるため、首相・法務大臣レベルまで結ばなければ、クリアするのは困難ではある。

私は、「可能にしたい」のである。

「話せば・・・判る」とは、かつて、犬養毅首相が残した言葉である。

「明日は我が身、他人事ではない」のである。


この「法改正」は、今後の冤罪事件を食い止める事になるし、間に合えば私が関わるこの裁判の差し止め、
あるいは一審からのやり直しへと繋がる可能性を持っている。

裁判官は、検察から証拠を受け取る第一回公判以前に、被告人と直に対面し、被告人の人格や生き方を知り、本人の主張を聞いた上で法廷に臨む形でなければ、「予断を来すおそれ」=先入観は決して無くならないのである。


もう一度、お伝えたい。 本来、「人は人を裁けない」のである。


「追記」

「トリック」は、山田さんに・・・・バラサレル。「このぉ、イカサマ野郎。全部、お見通しだぁ」

私の名は、「なが・・・やまた(山田)・・・くみ」である。・・・・・バラサレタ。


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「告」・・・武士(もののふ)の伝文
2010/08/12(Thu)
私は、幼き頃からの我が人生を振り返った時、薄っすらではあるがいつも「何か・・・」に導かれる感じを覚えていた。

私は、30歳を過ぎた頃から始めた東北地方の旅を10年以上続ける途中、岩手県遠野市にある石上山の尾根に立ち、遠くの山並みを眺めた時、突然時空を越えた懐かしさを覚えたのである。

「遥か遠い昔、オレはここに立ちこの風景を見ていた・・・」

「なんだ?・・・このタイムスリップでもしているかのような感覚は・・・」
それは、私の目を通して、別の誰かの意識が重なっているような感覚だった。
 
私は、岩手の歴史を調べ「前九年の役」のあと、安倍貞任の弟・宗任が九州の大宰府に行き、宗任の3人の男子のうち次男・仲任が「薩摩国」へ行ったことを知った。その後の消息は不明だが、私にとって、郷里・鹿児島と岩手を結ぶ「答え」として、それだけで充分であったし、その話を聞くことになった方たちから、誰一人として否定を含む言葉を受けた事がない。なぜならば、それは血縁を超えた「魂のレベル」で導いた「答え」であったからだ。


3、4年前に私が東京にてイベント美術の仕事をしていた頃の話である。

ある日の深夜、私はその日の現場を共に納めた若者・坂野氏と、浅草橋の事務所に戻り、一通りの片付けを終えて「おつかれさん」となった。事務所の鍵を閉め、私がすっかり灯かりの落ちた通りに出た時である。
「永山さん・・・」
振り向くと、少し離れた薄明かりの中におどけた仕草で後ずさりする若者の姿があった。
「永山さん。僕は永山さんのこと、サムライだと思います」
若者の思いがけない言葉を受けた私は、苦笑いのまま答えた。
「と、言う事は・・・坂野さん。あんたも、サムライだと言うことになるな」
すると、若者は嬉しそうに笑顔で答えた。
「えへへっ・・・もちろん。じゃあね、おつかれさまぁ」
「はい、おつかれさん・・・」
駅に向かう若者の影は、総武線のガード下の暗闇へと融けていったのである。

「アメリカ帰り」の匂いが残るこの若者の言葉の意味を、この時まだ、私は知らなかった。


今、私は、我が人生が「魂のルーツ」を辿る人生である事を確信している。
なぜならば、我が人生には私の知らない「シナリオ」が感じられるからである。



私はこの夏、北海道の知人宅に滞在しながらこのブログ記事を書いている。

これまでの私の人生という旅に於いて、「何か・・・ある」と感じざるをえない「出逢い」という出来事の体験は、「あたりまえ」であった。
その事は今も続いており、北海道に滞在中、北海道にまつわる歴史を感じ取る事と、この北の大地に生きる女性との出逢いによって、私がかつて魂のレベルで「物部・もののべ」であることが判った。

昨今、戦国武将ブームであるが、武士と書いて「もののふ」と読む基になったのが、「物部・もののべ」である。史実によれば奈良の大和に都が在りし頃、軍事・祭祀に亘り「物部氏」が全盛を迎えた時代があったという。つまりは、武士(もののふ)の起源となる。

戦場(いくさば)の武士ならば、刀と弓矢を持たねば仕事にならぬ。
現代社会に於いて、「もののふ」の魂に気づき志あらん者なれば、奇しくも剣の形状にも似た「ペン」を遣いての仕事である。今こそ「モノ述べ」たらんと名乗りを挙げ、「ペン」を振るわずば仕事(つとめ)にはなるまい。



さて、本題に参る。

私はこれまで、国内各地の支援者の協力を得て、ここまでこの裁判に妻や仲間と共に「世直し」の志のままにやってきた。


この裁判、巷で頻繁に起きている似たような事件と同レベルの裁判ではないことを、読者ならばお気づき頂きたい。

現在、この裁判の舞台は、最高裁での「上告審」へと移行し、しかも大法廷にて「15人の裁判官」が審議するほどの事案となっている。
この事がどれほどの事なのか、その「意味」は大きいのである。。

もしこの事件の裁判が、現在多発している乳児の死亡にまつわる事件と同等ならば、既に「上告」は却下であろうし、最高裁で審議すること事態が「異例」である。しかも、通常ならば小法廷にて「5人の裁判官」が審議する裁判のはずである。

最高裁判所の大法廷にて「15人の裁判官」が審議する「意味」とは、日本の司法機関のトップが総力を上げて審議する判断を表明したのであり、それほどの裁判であるという意味である。

つまり、この上告審とは、国家の最高司法機関が「国家の根幹」に関わる裁判である事を正式に認めたことを意味している。

いわゆる、「憲法判断」に及ぶ前代未聞の裁判である。国家権力の超エリート集団の15人が、総掛かりでないと判断できない「大事件」だと、法治国家が総力を挙げて取り組む決断を下している裁判である。


今宵、北の夜空を流れる風を感じながら、私は「男」の言葉を思い出す。

「永山さん。・・・わしゃぁな。この事件だが、世の中がひっくり返る位のどえらい裁判になると思うちょるんだがな。そんな・・・気がする」

この言葉は、この裁判の一審での担当弁護士の一人である金井塚弁護士が、国選弁護人として決まって間もない頃、私に語った言葉である。
これは、齢80を越えた高齢となっても弁護士としての「気概」を全く失わない男が、長年の経験を基に直感的に導き出した「答え」であると、私は確信している。


最早、既に私の思いをご理解いただいて下さった読者なれば、下記の記述も今後の記事に「目」を通さずとも十分である。しかし、裁判の最終結審までは己を信じて、私を信じてくれる人がいなくなっても、「おかしなことは、おかしい」と言おうと教えてくれた人々の為にも、役割を知った自分の為にも、まだ気づかない人々の為にも、私の「本当の仕事」の本当の仕事始めとして、続ける。

この事件、この裁判では、私でも判るように国家権力のエリートたちが「糞マジメ」に自らがおかしなことをしている実態を懇切丁寧に見せている。

もし読者が、私が見た「法廷」を体験していたなら、私と同じ「気づき」を感じたなら、「ある行動を執る」きっかけになったと、私は信じる。


私が知った「おかしなこと」は、あまりにも多い。
多すぎる為、現時点にて読者に私が知り得るすべてを知っていただく事は、かなり労力を強いることになると、私は思っているので、今の私なりに「これだけは!・・・」と思う事を書くことにした。

1 検察は、乳児の死因は「栄養失調」だと強調し続けているが、検察が自ら依頼した司法解剖の鑑定結果の「死因は不詳」である。つまり、検察は自ら法廷に提示した「証拠」を自ら否定した。死亡原因を思い込みによる「憶測」で作り上げた。乳児が二週間もミルクを飲まないで普通以上に動き生き続けた証拠を前にして、死亡原因が「栄養失調」では成り立たない。なぜなら、医学の常識として、乳児が三日もミルクを摂らなかったら、動けないどころか生きてはいない。私だって立っていられるかどうか怪しい話である。検察が、自ら証拠として認め、法廷で提示した「14日間」の映像にある、動き続け・立ち・歩いている証拠が「栄養失調」には結びつかず成り立たないのである。


2 一審の裁判官の判決理由には、素人でも判る「矛盾」がある。
裁判長は判決文にて、「被告人両名に、我が子に対する愛情は認められる・・・が、残酷な犯行である」と、平然と述べている。
普通に考えて、我が子に対して残酷な犯行をする親に、愛情などない。
裁判長は、被告人の我が子に対する愛情を認めている。

読者は、被告人を「有罪」とする裁判長の判決をどう思われる?


3 裁判長の判決理由の一節には、「原因はともかく・・・」「死亡原因は、検察側の述べるとおり、栄養失調による衰弱死である」とある。
常識からして出来事には必ず、原因と結果がある。

つまり、裁判長は被告人が知り得る「原因=真実はともかく・・・」と言った時点で、一番肝心な死亡原因を無視した視点で審議したことを宣言している。ところがその後、裁判長は検察同様に死亡原因を「栄養失調」(専門医も認めない仮説・憶測)によるものだと判断したのである。普通に考えて、裁判長は「栄養失調かどうかはともかく・・・栄養失調です」と宣言したことになる。
裁判長は、どう考えても「おかしなこと」をいっている。

読者に問う。読者から診た私の言っていることは、おかしいですか?
それとも・・・・。である。


4 判決理由の別な一節に於いて、「本件は、特殊な事例であり被告人の言っている事が・・・・そうだとしても、一般的事例・社会通念上に照らしあわすと認めることが出来ない」という意味の事を述べている。

読者が、これを極々普通に読み上げたとき「おや?」と、気づくであろう。

これも、一審および控訴審の裁判長が判決理由にて使った、裁判官・裁判長特有の言葉遊びの如き「法廷でのすり替えテクニック」である。

検察官も引っ掛け問題の如き「言葉のトリック」を、実に巧妙に駆使している。つまり、法廷にて交わされている「言葉」が、いかに一般社会とかけ離れているかを知ることが出来る。

5 控訴審にて裁判長は、前代未聞の「まさか」の出来事・常識外の現象が現実に起きたことなのに、その事をある程度認めたように思わせているが、なんの事はない。「・・・だとしても」が連発された判決文を見れば、「言葉のトリック」が剥きだしである。「モットモラシク・・・」聞こえるのである。

つまり、裁判長は自分では判断しようもないので、一般の事件レベルの判定で誤魔化した判決である。「味噌も糞も一緒」の対応を自ら暴露している図である。
裁判長は、法廷の面前にて「私では判断出来ません。ごめんなさい」と、立場上公言できないし、・・・と、言うより「判断したくない」が本音である。その場合、あたかももっともらしく耳障りのいい「言い回し」と、巧妙な「すり替えテクニック」を駆使した表現で、誤魔化したのである。


6 では、なぜ裁判官がこのような「言葉のトリック=言い回し・すり替えテクニック」を、判決理由の表現として用いるのか?

答えは、被告人の述べている「特殊な出来事=真実の世界」を、裁判官は体験(見た・聞いた・語った・感じた)しておらず、これまでに前例のない事案の裁判であるため、大阪高裁の裁判長としては最高裁に判断を委ねる判断をしたのである。

私なりの解釈では、早い話が、「こんな訳のわからない事案を、私が担当する法廷に持ってこないでくれ。とっとと最高裁で頼むよ・・・トホホ」と悲鳴を上げているのである。
要は、責任回避の為、「たらい回し」の如き手段で、一応の責任を執ったつもりなのである。別な視点から言えば、最大限役目を果たしたとも言える。

この判断は、何も珍しくも特殊な行為でもない。読者でも、少なくとも一度や二度は人生の中で身に覚えがあるはず。私とてサラリーマン時代に、私が上司に、上司が社長に「判断」を委ねた行為と同じである。企業・役所・医療・教育に関わる仕事をしている人々が日常の業務の中で、手続きという名目で「責任回避」できるシステムにより、正当化する事(都合よく)が「あたりまえ」になっているのと、形としてやっていることは変わらないレベルなのである。

しかし、このシステムを裁判に導入した時、そら怖ろしいことが起こる。その結果、被告人には保釈中であっても一般人のような自由はないし、家族は離れ離れの生活を強いられ、今尚続いているのである。

国民が安心して暮らせるために頑張って職務に忠実にやっている事とはいえ、「普通に幸せに暮らしたいだけ」のある一家族に対して、真逆の仕打ちを続けているのである。


この事件は、誤解(思い込み)から生まれ、誤解は誤報(憶測)となった。
誤報は、誤認逮捕(真実の否定)への連鎖となって、裁判になっている。

裁判の実態と法律の限界が、最高裁での「判決の行方」と共に世に晒されているのである。


事件を報道したマスコミの記述内容に、誤りがあったことをマスコミが認めても、謝罪と訂正の報道はされない。また、一審判決以降、この裁判にマスコミは一切触れない。その理由を、もう読者はお気づきであろう。

「軽はずみな報道が出来ない」事件であることを、事件発生後にフジテレビが「とくダネ」という番組にて事件を取り上げたが、レギュラーコメンテーターたちが、歯切れの悪いコメントしか出来なかった。と、・・・言う事は、読者が今感じたことが、読者の真実である。

マスコミのトップがこの裁判を報道することすら最大限神経を使っている事がわかる。動けるはずもない。


読者に問う。この世に己がなぜ存在し、そして今、なぜに永山拓美という一人の男が書き記すこの「TAKUMIのいいつたえ」に触れることになったのかを、少しでもいい・・・考えて欲しい。読者が思ったままに行動すればいいのである。私が、そうであるように。私としては、我らが活動へのご支援を願うばかりである。

※ 長谷章宏・真由美夫妻支援基金振込先

三菱東京UFJ銀行 西院支店(504)(普)0061420
口座名 ハセアキヒロ マユミフサイヲシエンスルカイ カイケイ ハヤシ カズミ 
       (スペースに注意)


「追記」
私は、自らの想いを語るため、「述べの場所」へ身体を運ばざるを得ないのである。「野辺(述べ)の場所」での「野誰(のたれ)死に」だけは御免である。

「明日は、我が身」・・・とは、私が中学1年生の時、自らの体験から学んだ真実である。現時点の読者にとってどうであれ、この「答え」は、私の体験の中から出した「答え」なのである。

実は私には過去の体験にて一度だけ、私が世話になった知人が事件の犯人とされ、裁判によって有罪が確定したことがあります。その時私は、知人の無罪を信じておりましたし、知人が刑に服している今でも「無罪」を信じています。

私が当時、今日ように裁判に関わり法曹界・法廷での「おかしさ」を見抜く目に気づいていたなら、自分の事として裁判と真剣に向かい合っていたなら、私は大事な知人を助けられたかもしれません。それ以前に私は何一つ、知人の為に行動しなかった。すべては、「あとのまつり」でした。

私は、「無罪を信じる」と言うだけ、思うだけで、「見て見ぬ振り」だった。

今朝、目覚める前に見た夢に、知人が現れた。私と妻に対し、満面の笑みを湛え「お祝いの言葉」を述べる知人の姿。隣にはヒロミちゃんが親父譲りの笑みを浮かべていた。
「久平さん、すまない。・・・・ありがとう」

もうあんな想いを私はしたくないし、読者にも誰にもさせたくないのである。

これまで、「納得のいかない」判決を受け、苦渋の時を送られた方の失われた時を私にはどうすることも出来ない。私に出来る事は、これからの事しかない。

前回のブログタイトルの「告(つけ)」とは、私自身が過去にシデカシタ事の「ツケ」でもある。


今回も、私のブログ記事にお付き合い下さった読者へ、心からお礼を申し上げます。

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