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火祭りのいいつたえ ・2 「ねぷたからの贈り物」
2008/10/23(Thu)
           「ねぷたとは、子供らの" 夢"である」

青森・五所川原市の、あの「立佞武多」を復活させた男、三上真輝氏が私に教えてくれた言葉である。

かつて人に、「あなたにとって、ねぷたとは何か」と問われたとき、私はいつも、こう答えた。
        
           「私にとって、ねぷたは魂・ソウルだと」

昨年の夏、さらに今年の夏と2年続けて、弘前・ねぷた祭りには足を運んでいない。

            しかし、私はわかっている。

私が、どこで何をしていようとも、たとえ「ねぷた祭り」の夜、私が津軽の地に居なくとも、
私には、いつでも「必殺ねぷた人」の魂の雄叫びが息づいていることを。

         津軽の子供たちよ、このことをよく憶えておきなさい。


前回のつづきである。

高城邸での「大文字・五山の送り火」に、私と妻が招待を受けたことから、
この夜の主役・渡守希さんに加え、彼女のスタッフである黒田氏との出会いが始まった。
それは、このあと私にとって予期せぬ転回を迎え、「新たな出会いへの扉」が、開かれる夜となった。

私の口から飛び出した「ねぷた」の響きは、目の前のふたりの表情に変化をあたえた。
ふたりは、瞬時に目を合わせると、離れた観客たちの中へ声をかけた。

  「永山さん、ちょ ちょっと待ってくれますか。」

  「ねぇ Kさーん、ねぶたの話なんだけど。ちょっといーい?」

私の前に、細身の爽やかな若者がゆっくり駆け寄ってきた。

  「えっ、ねぶたの話?こちらの方がそうなんですか?」

私は、思い出したように「今頃なんですが・・・」と言って、3人に名刺を渡した。
渡守さんは、名刺を所持していなかったが、ふたりの若い男たちとは名刺交換となった。

   渡守希さんは、京都造形芸術大学出身の舞踏家だと、パンフレットに記載してあった。
   黒田氏は、渡守さんの出た大学の後輩で、アートディレクター、映像作家、そして、WEBデザイナーの
   肩書きを持っていた。
   K氏は、京都造形芸術大学・プロジェクトセンターの教務の方だった。
   
この3人の関係は、どうやら同じ大学での繋がりの様であった。


私が「ねぶた」関係者とのことで、彼は興味深げに質問を始めたのである。。

  「ところで、永山さんは青森の方なのですか?」

私は、笑いながら答えた。
      「いいえ私は、生まれも育ちも九州・鹿児島なんです」
      
      「高校卒業後、進学のため上京してその後、今年の二月半ばまでずっと東京暮らしでした」
      「ああ、今はこの京都に住んでいます。自宅は、鞍馬口からすぐ近くの紫明にあります」

  
  「えっ、じゃあ何で青森のねぶた祭りへ?」

      「あのぉ、私が参加していたのは、青森市ではなくて弘前市なんですね。」
      「青森は、ね・ぶ・たですが、弘前では ね・ぷ・たって言うんですね。」
       
      「弘前ねぷたのほとんどは、扇の形の物なのですが、私の参加していた団体では、
       大人たち用は青森みたいに、張りぼての人形ねぷた。子供たち用は、扇ねぷたでした」
        
      「一般には、青森ねぶた・弘前ねぷた・五所川原の立佞武多が有名ですが、
      青森県内には他の町々でもやってて、扇形でもね・ぶ・たって呼んでいる所があって、
      呼び方は様々です」

私は、弘前・ねぷた祭りの団体・「必殺ねぷた人」との出会いの経緯を話し始めた。

      「きっかけは、私が27歳のときですから、ちょうど20年前になります」
        
      「その年の夏に私は、自転車の一人旅をしたんですが、富山まで行った時、
      ふと、私に対してとても厳しかった先輩のことを思い出して急に彼と会いたくなっちゃいましてね」
        
      「その先輩が、弘前ねぷたに参加していた事を思い出して、そのまま夜行寝台の
      列車に乗って翌朝、弘前に着いて、その日はねぷた祭りの最終日で、
      祭りの中を探し回り先輩と会えたんです」
        
      「その時のことが"きっかけ"で、私は"ねぷた"と関わることになったんです」

  
  「へぇー。で、永山さんは、その団体でねぶたを造ってらっしゃったんですか?」

彼からの問いに、私は答えた。

       「祭りに参加し始めの頃は、祭りの夜だけの数日間の参加でした」
                                                           
       「その後は、祭りの始まる数日前に行き、最後の組み立ての手伝いに加わり、
        祭りの夜を楽しむだけの時期があり、本格的に、造りになったのは今から12年前、
        35歳の夏に扇ねぷたを造らせてもらう機会があったんです」

       「そして、その夏の祭りの終わりに、団体の絵師に世代交代の話がありました」
       「自ら名乗りを上げた新しい絵師は、"必殺ねぷた人"の仲間内では"チャロ"と
       呼ばれていた中川俊一という男で、彼は当時まだ二十歳前の若者でした」

       「しかし、人形ねぷたの台座は老朽化していたことで、私は彼から新しい台座造りを
        頼まれたんです」
       
       「その翌年から私は、台座・土台造りを主に受け持ち、人形部分との合体後は、
        補強と背面の「見送り」と呼ばれる装飾、さらに扇ねぷたのメンテナンスから、
        各所の様々な造作と組み立てと、調整を担当することになったんです」

       「その中で、私は仕事で身に着けた" ブロの技"を、子供たちに教える体験を得まして、
        まあ、その体験が東京での本業でも、活かされる事に。 なーんて事になったんです」

       
       私自身、針金で上部の人形を造った経験はないが、永年造りから関わってきた事で、
       どうやって組み上げるかは、見て知っていることを付け加えた。

目の前の3人はニコニコしながら、私の話に聞き入っていた。

Kさんの「?」がやってきた。

   「ねぶた・・いや、ねぷたですか。あれって中の灯りは電気なんですか?」

       
        「ほとんどの場合は、人形ねぷたも扇ねぷたも光源は電気ですが、
         私が造らせてもらった扇ねぷたは、光源がすべてローソクの物でした。」

  
   「えっ、ローソクって?ねぷたって表面が、紙で出来ているから火で燃えちゃって
    危なくないんですか?」

   
        確かに・・・・普通は、そう考えても不思議はないと、私は思った。

        「まあ、私のいた団体で私が知る限りでは、燃えた事はなかったですね」
       
        「ただ、1 、2度よその団体の物で高さが2メートル程の扇ねぷたが、風で煽られて
         燃えるところを見たことがあります」
        「和紙にロウを使って描いている分、燃え尽きるまではあっという間なんです」

        「因みに、私が造らせてもらった扇ねぷたは、高さが4メートルの中型サイズで、
         祭りの運行前から本拠地のねぷた小屋に帰り着くまで、ずっとねぷたの中に
         小・中学生の男の子が二人、ローソクの灯が消えないように、入っていました」

私は、「火の番」と呼ばれるそのポジションが、男の子たちの「あこがれ」のポジションであり、
なかには女の子でさえ「火の番」をやりたがる場面もあった話をした。

        さすがに、女の子の場合は却下であったと付け加えた。

  
   「でも、もし燃えちゃったら、やはり危ないですよね。」

         私は、「?・・・」となった。
        「あの、先ほども言いましたが燃えたら1分もないくらいで、
         あっという間に紙は燃え尽きて、木の骨組みだけになるんですね。」

         「あと、扇の形に張ってある紙の外と内には、ぱっと見では気づかないくらいの
         細い針金を何本も張って、紙が風に揺らされてもローソクの火に当たらないように
         なっているんです。」

        「内部の構造は、子供たちが動き易く足場もありますし、
         造った私はもちろん、中に入る男の子の意見を確認して仕上げていました。」

私は、さらに「火の番」の男の子たちに、いざという時はじっとしている事や、
決して慌てて飛び降りたりしないよう念を押した話を付け加えたのである。

私は、ねぷたの「火の番」の話を続けた。
     
        「それから、火の番の男の子はねぷたの出入り口の潜り戸のロックを、
        内側から自分の責任で閉めるんですね。出入りは、彼らの判断に任せています。」
        
        「ですから、責任においては子供といえども、一人前の扱いをします。」


               大人たちから任されるポジションに就く。 「その誇り」

        これは、かつて子供の頃に「火の番」の体験をしたという青年から聞いた話しである。

        
        「だから、男の子たちは火の番に憧れたのだと私は思います。」

     私は、笑いながら、
        「だって中々ないでしょ、子供の頃そんな体験をすることって。」


     いやはや、私は良くも悪くも「ねぷた」の話になると、止まらないところがある。


今度はKさんからの、大学での「ねぶた」造りの話題になった。

昨年、彼の勤める大学で初めて授業の一環として「ねぶた」を、学生たちが造ったとのことだった。

そして、今年も夏休みを終えた9月上旬から、一年生約800人を1チーム35、6人の20チームに分けて、
大学構内でなんと20体もの「ねぶた」を造るとのことだった。

        
       もう、私は興味津々である。 「見たい!行くべし!」の思いが募った。


   「ローソクの明かりって、いいんでしょうね。」

渡守さんに加え、彼も光源をローソクにした話に反応してきた。

       「ええ。電気とは違い、紙のむこうにゆらゆらとローソクの炎が揺れて。」
        
       「街明かりの無い街外れの暗い道を、ねぷたが行く様は赴きがあって、実にいい絵です」
       「幽幻っていうんですかね?怪しげな美しさがありますね。」

   
   「永山さん、人形タイプのねぶたでもローソクで出来ますかねぇ?」

私は、「うーん・・・」と、返事に困り考えた。
私はやった事がないのだが、出来ない事はないのでは?と、思った。

       「電気の場合と比べて、デザイン的な表現や構造上にあれこれ制約が出てくると
       思われますが、紙とローソクの炎との距離、火を絶やさないようにメンテナンスのための
       出入りなどなど、様々な工夫をすれば出来ない事はないと、私は思いますが。」

   
   「えっ?ローソクの火の点いている中に入るんですか?」

彼は、「それはちょっと・・・」のような反応を見せた。
私は一瞬、「?・・・」

       「あのぉ、さっきも言いました様に、子供でも出来る事なのに大人が出来ないなんて
       おかしいですよねぇ。」

       「で、今回の大学で造られる”ねぶた”は、電気ですか?それとも・・・」

彼は、私の問い掛けに「とんでもない」と言わんばかりの手振りで、笑いながら答えた。

   「いやいや、 やはり今年は予定の設計通りに電気でやります。」

       「まあ、そうですね。電気の方がいろいろと無難だと、私も思います。」
       
       「電気でやることに、既に決まっているのをあえて変えると、何かと余計な不都合を
        生む素に為りかねませんからね。」

Kさんから、もうひとつ興味深い話題が出てきた。

昨年ねぶた作りを経験した2年生のち25、6人で「ねぶた」を5体作り、
10月中ごろ、京都市内にある「粟田神社・あわたじんじゃ」のお祭りに参加するという話だった。

さらにである。彼の口から京都の「粟田神社」に青森・津軽藩より古い「ねぶた」の話が伝わって
いて、100数十年ぶりに今年の祭りで「ねぶた復活」との話が出てきた。


歴史の話好きな私も、一般的な「ねぷたの起原」の知識はあった。
しかし、ねぷたは京都が先とは?まあ、何事にも諸説ある世界である。

京都は、至るところにお寺と神社のある都市である。
今年の2月に京都に移り住んだ私には、神社の方には失礼ながら、「粟田神社」の名前は初耳だった。

           「京都の街を、ねぶたが練り歩く」

いやはや、「世の中なにが起きてもおかしくない」と、常々思っている私である。

最早、「ねぷたの起原」やら神社の確認などの話は後回しである。

なにより、昨年、そして今年と2年続けて「ねぷたのない夏」を送った私にとって、この話題は

                 「ご馳走」である。

                 「俺も、行くべし!」で、ある。


大学生といえば、私が関わった12、3年前の、あの"ねぷたの子供"らと同い年である。

              「ねぶたをつくる彼らに会いたい!」

私は、K氏に私の思いを「そのまま」伝えたのだった。

彼は、私の申し出を笑顔で受け入れてくれた。


思いがけない「嬉しい出会いと話の展開」に、私は「大」の文字を思った。
振り向くと、うしろで一部始終を見ていた妻が、笑顔で一言。

           「拓ちゃん、よかったね」で、ある。

私たちは、互いに「ありがとうございました。」を、別れの挨拶とした。

           また、会えるときが楽しみである。


私と妻は、屋上を降りる前に高城家の娘さんと会い、「お招き」の礼を述べた。
「舞い手」の、渡守さん、黒田氏、K氏と楽しく話をしたことを、伝えた。

すると彼女は、「そうでしたか。それはよかったですね。」と、私たちを笑顔で見送ってくれた。


私と妻は高城邸を離れ、すっかりひと数の少なくなった鞍馬口通りを、紫明の自宅へ向かった。

私は、これまでの私の多くの出会いと体験が今に繋がり、さらに今宵の新たな出会いへと
繋げてくれたのだなと思った。

           「ねぇ、たまには近場の居酒屋で、どーお?一杯。」

私は、妻からの言葉にすぐさま「うん。いいねぇ。」と返し、ますますご機嫌になった。


鞍馬口通りを歩きながら私は、ゆっくりと夜空を見上げた。

高城邸に向かう時に見た、鈍よりとした怪しげな雨雲は、すっかり姿を消していた。

上空の風を目で追うと、振り向いた「大文字山」の遥か高みに、名残りの雲を残すのみであった。




時は流れ、この「大文字・五山の送り火」の夜から、一月余りの時を過ぎた秋晴れの日の午後、
       私は「大」の文字を目指し、秋風の京都の街へ自転車を走らせるのである。

次回へ・・・つづく。である。



「追記」

1・「出会い」について

私に高校時代、油絵を教えてくれた中島千之氏。
いまでも親交を続ける師が、卒業の際に私への送る言葉は「一期一会」だった。

私自身、旅好きが功じて多くの「出会い」を得ることになった。

「出会い」は、人生の旅の中にあると捉えれば、誰にでも「あたりまえに」あるものだ。

特別なことはない、普通に生きている中で、自分の思いのままに動けば必ず誰かと出会う。

自分に本当に「素直」に行動しつづけると、「出会い」は普通にやってくるものである。

本当の名前も隠し、本当の自分も隠し、本当の思いも隠し、本当の顔さえ見せない。

これでは、誰にも憶えてもらえない。 誰にも気づいてもらえない。
      誰にもわかってもらえない。誰にも会ってもらえない。

         これでは、あきらかに妄想ごっこでしかない。

「本当の出会い」は、生身のやりとりを続けることでしかない。
会えばわかる。 話せばわかる。 本当の思いを出し合うことで「本物」になるのだ。



2・ブログをかいて

・本文の中で、「火の番」の話がありました。

子供たちに出来たことなのに、大人が出来ないなんて。普通に考えてばかげた話。
「こどもは正直」なら、「大人だって正直」は簡単に出来るよね。

子供に出来ないって言ったら、「えーっ、できないの?だめじゃん。」って、間違いなくバカにされます。

もしくは、できない大人たちは、子供たちに足元を見られて、子供たちの「うそ」がばれても
叱る事さえできません。
           
           子供たちを「甘く」見てはいけません。

これって、見方を変えると、子供に親が「おしえて」もらっている状態ってこと?

           「子は、親の鏡」って言いますからね。


・「表現したい」と思うものを、「かたち」にするには、

あの手・この手で「考えて試してみる」こと、その繰り返しである。
繰り返しやり続けることで、知識に経験からの知識が加わり、いいものになるのです。
            
        あの手、この手のノウハウは、なんでも共通である。

これだけ世の中に「ありえない」ことが、起きている・・・目の前に「ある」のだから、

           「なにが起きても不思議はない」

「できそうもない」ことが・・・出来ても、なんの不思議もないのである。

やる前から、「できない」を言う人は、「やりたくない」と、言うべきである。

正しくは、「自分は、責任を執りたくない」と、言っているのだ。



3・「大」の送り火に見えたもの

雨上がりの暗い山影のなかに、浮かび上がった「大」の字は、交差した中心部から
しっかりとした火の手を上げ、五つの方向へ「その光」を放つように広げていった。

「人」の字は、支えあう・もたれあうの字ではない。
        ひとりで立っているヒトの姿である。

己の内なるものを放てば「火」となり、腕を開けば「大」の字が「光」の字となるのだ。

自分の外に求めた「光」など、所詮「まやかしの光」でしかない。

「本当の光」は、自分の心の中に創った「苦しい闇の奥」にしかないのである。

内なるものとは「素直」である。 「正直」な思いである。 「自分の本心」である。

              それは、「真・マコト」の心である。

薄汚れた心では「光」など放てない。 自ら「こころ」を磨かないと「闇」のままである。

        自分で汚した「こころ」を磨くのは、他の誰にも磨けない。

        どんなに苦しくとも、磨けるのは「自分」しかいないのである。


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