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火祭りのいいつたえ ・2 「ねぷたからの贈り物」
2008/10/23(Thu)
           「ねぷたとは、子供らの" 夢"である」

青森・五所川原市の、あの「立佞武多」を復活させた男、三上真輝氏が私に教えてくれた言葉である。

かつて人に、「あなたにとって、ねぷたとは何か」と問われたとき、私はいつも、こう答えた。
        
           「私にとって、ねぷたは魂・ソウルだと」

昨年の夏、さらに今年の夏と2年続けて、弘前・ねぷた祭りには足を運んでいない。

            しかし、私はわかっている。

私が、どこで何をしていようとも、たとえ「ねぷた祭り」の夜、私が津軽の地に居なくとも、
私には、いつでも「必殺ねぷた人」の魂の雄叫びが息づいていることを。

         津軽の子供たちよ、このことをよく憶えておきなさい。


前回のつづきである。

高城邸での「大文字・五山の送り火」に、私と妻が招待を受けたことから、
この夜の主役・渡守希さんに加え、彼女のスタッフである黒田氏との出会いが始まった。
それは、このあと私にとって予期せぬ転回を迎え、「新たな出会いへの扉」が、開かれる夜となった。

私の口から飛び出した「ねぷた」の響きは、目の前のふたりの表情に変化をあたえた。
ふたりは、瞬時に目を合わせると、離れた観客たちの中へ声をかけた。

  「永山さん、ちょ ちょっと待ってくれますか。」

  「ねぇ Kさーん、ねぶたの話なんだけど。ちょっといーい?」

私の前に、細身の爽やかな若者がゆっくり駆け寄ってきた。

  「えっ、ねぶたの話?こちらの方がそうなんですか?」

私は、思い出したように「今頃なんですが・・・」と言って、3人に名刺を渡した。
渡守さんは、名刺を所持していなかったが、ふたりの若い男たちとは名刺交換となった。

   渡守希さんは、京都造形芸術大学出身の舞踏家だと、パンフレットに記載してあった。
   黒田氏は、渡守さんの出た大学の後輩で、アートディレクター、映像作家、そして、WEBデザイナーの
   肩書きを持っていた。
   K氏は、京都造形芸術大学・プロジェクトセンターの教務の方だった。
   
この3人の関係は、どうやら同じ大学での繋がりの様であった。


私が「ねぶた」関係者とのことで、彼は興味深げに質問を始めたのである。。

  「ところで、永山さんは青森の方なのですか?」

私は、笑いながら答えた。
      「いいえ私は、生まれも育ちも九州・鹿児島なんです」
      
      「高校卒業後、進学のため上京してその後、今年の二月半ばまでずっと東京暮らしでした」
      「ああ、今はこの京都に住んでいます。自宅は、鞍馬口からすぐ近くの紫明にあります」

  
  「えっ、じゃあ何で青森のねぶた祭りへ?」

      「あのぉ、私が参加していたのは、青森市ではなくて弘前市なんですね。」
      「青森は、ね・ぶ・たですが、弘前では ね・ぷ・たって言うんですね。」
       
      「弘前ねぷたのほとんどは、扇の形の物なのですが、私の参加していた団体では、
       大人たち用は青森みたいに、張りぼての人形ねぷた。子供たち用は、扇ねぷたでした」
        
      「一般には、青森ねぶた・弘前ねぷた・五所川原の立佞武多が有名ですが、
      青森県内には他の町々でもやってて、扇形でもね・ぶ・たって呼んでいる所があって、
      呼び方は様々です」

私は、弘前・ねぷた祭りの団体・「必殺ねぷた人」との出会いの経緯を話し始めた。

      「きっかけは、私が27歳のときですから、ちょうど20年前になります」
        
      「その年の夏に私は、自転車の一人旅をしたんですが、富山まで行った時、
      ふと、私に対してとても厳しかった先輩のことを思い出して急に彼と会いたくなっちゃいましてね」
        
      「その先輩が、弘前ねぷたに参加していた事を思い出して、そのまま夜行寝台の
      列車に乗って翌朝、弘前に着いて、その日はねぷた祭りの最終日で、
      祭りの中を探し回り先輩と会えたんです」
        
      「その時のことが"きっかけ"で、私は"ねぷた"と関わることになったんです」

  
  「へぇー。で、永山さんは、その団体でねぶたを造ってらっしゃったんですか?」

彼からの問いに、私は答えた。

       「祭りに参加し始めの頃は、祭りの夜だけの数日間の参加でした」
                                                           
       「その後は、祭りの始まる数日前に行き、最後の組み立ての手伝いに加わり、
        祭りの夜を楽しむだけの時期があり、本格的に、造りになったのは今から12年前、
        35歳の夏に扇ねぷたを造らせてもらう機会があったんです」

       「そして、その夏の祭りの終わりに、団体の絵師に世代交代の話がありました」
       「自ら名乗りを上げた新しい絵師は、"必殺ねぷた人"の仲間内では"チャロ"と
       呼ばれていた中川俊一という男で、彼は当時まだ二十歳前の若者でした」

       「しかし、人形ねぷたの台座は老朽化していたことで、私は彼から新しい台座造りを
        頼まれたんです」
       
       「その翌年から私は、台座・土台造りを主に受け持ち、人形部分との合体後は、
        補強と背面の「見送り」と呼ばれる装飾、さらに扇ねぷたのメンテナンスから、
        各所の様々な造作と組み立てと、調整を担当することになったんです」

       「その中で、私は仕事で身に着けた" ブロの技"を、子供たちに教える体験を得まして、
        まあ、その体験が東京での本業でも、活かされる事に。 なーんて事になったんです」

       
       私自身、針金で上部の人形を造った経験はないが、永年造りから関わってきた事で、
       どうやって組み上げるかは、見て知っていることを付け加えた。

目の前の3人はニコニコしながら、私の話に聞き入っていた。

Kさんの「?」がやってきた。

   「ねぶた・・いや、ねぷたですか。あれって中の灯りは電気なんですか?」

       
        「ほとんどの場合は、人形ねぷたも扇ねぷたも光源は電気ですが、
         私が造らせてもらった扇ねぷたは、光源がすべてローソクの物でした。」

  
   「えっ、ローソクって?ねぷたって表面が、紙で出来ているから火で燃えちゃって
    危なくないんですか?」

   
        確かに・・・・普通は、そう考えても不思議はないと、私は思った。

        「まあ、私のいた団体で私が知る限りでは、燃えた事はなかったですね」
       
        「ただ、1 、2度よその団体の物で高さが2メートル程の扇ねぷたが、風で煽られて
         燃えるところを見たことがあります」
        「和紙にロウを使って描いている分、燃え尽きるまではあっという間なんです」

        「因みに、私が造らせてもらった扇ねぷたは、高さが4メートルの中型サイズで、
         祭りの運行前から本拠地のねぷた小屋に帰り着くまで、ずっとねぷたの中に
         小・中学生の男の子が二人、ローソクの灯が消えないように、入っていました」

私は、「火の番」と呼ばれるそのポジションが、男の子たちの「あこがれ」のポジションであり、
なかには女の子でさえ「火の番」をやりたがる場面もあった話をした。

        さすがに、女の子の場合は却下であったと付け加えた。

  
   「でも、もし燃えちゃったら、やはり危ないですよね。」

         私は、「?・・・」となった。
        「あの、先ほども言いましたが燃えたら1分もないくらいで、
         あっという間に紙は燃え尽きて、木の骨組みだけになるんですね。」

         「あと、扇の形に張ってある紙の外と内には、ぱっと見では気づかないくらいの
         細い針金を何本も張って、紙が風に揺らされてもローソクの火に当たらないように
         なっているんです。」

        「内部の構造は、子供たちが動き易く足場もありますし、
         造った私はもちろん、中に入る男の子の意見を確認して仕上げていました。」

私は、さらに「火の番」の男の子たちに、いざという時はじっとしている事や、
決して慌てて飛び降りたりしないよう念を押した話を付け加えたのである。

私は、ねぷたの「火の番」の話を続けた。
     
        「それから、火の番の男の子はねぷたの出入り口の潜り戸のロックを、
        内側から自分の責任で閉めるんですね。出入りは、彼らの判断に任せています。」
        
        「ですから、責任においては子供といえども、一人前の扱いをします。」


               大人たちから任されるポジションに就く。 「その誇り」

        これは、かつて子供の頃に「火の番」の体験をしたという青年から聞いた話しである。

        
        「だから、男の子たちは火の番に憧れたのだと私は思います。」

     私は、笑いながら、
        「だって中々ないでしょ、子供の頃そんな体験をすることって。」


     いやはや、私は良くも悪くも「ねぷた」の話になると、止まらないところがある。


今度はKさんからの、大学での「ねぶた」造りの話題になった。

昨年、彼の勤める大学で初めて授業の一環として「ねぶた」を、学生たちが造ったとのことだった。

そして、今年も夏休みを終えた9月上旬から、一年生約800人を1チーム35、6人の20チームに分けて、
大学構内でなんと20体もの「ねぶた」を造るとのことだった。

        
       もう、私は興味津々である。 「見たい!行くべし!」の思いが募った。


   「ローソクの明かりって、いいんでしょうね。」

渡守さんに加え、彼も光源をローソクにした話に反応してきた。

       「ええ。電気とは違い、紙のむこうにゆらゆらとローソクの炎が揺れて。」
        
       「街明かりの無い街外れの暗い道を、ねぷたが行く様は赴きがあって、実にいい絵です」
       「幽幻っていうんですかね?怪しげな美しさがありますね。」

   
   「永山さん、人形タイプのねぶたでもローソクで出来ますかねぇ?」

私は、「うーん・・・」と、返事に困り考えた。
私はやった事がないのだが、出来ない事はないのでは?と、思った。

       「電気の場合と比べて、デザイン的な表現や構造上にあれこれ制約が出てくると
       思われますが、紙とローソクの炎との距離、火を絶やさないようにメンテナンスのための
       出入りなどなど、様々な工夫をすれば出来ない事はないと、私は思いますが。」

   
   「えっ?ローソクの火の点いている中に入るんですか?」

彼は、「それはちょっと・・・」のような反応を見せた。
私は一瞬、「?・・・」

       「あのぉ、さっきも言いました様に、子供でも出来る事なのに大人が出来ないなんて
       おかしいですよねぇ。」

       「で、今回の大学で造られる”ねぶた”は、電気ですか?それとも・・・」

彼は、私の問い掛けに「とんでもない」と言わんばかりの手振りで、笑いながら答えた。

   「いやいや、 やはり今年は予定の設計通りに電気でやります。」

       「まあ、そうですね。電気の方がいろいろと無難だと、私も思います。」
       
       「電気でやることに、既に決まっているのをあえて変えると、何かと余計な不都合を
        生む素に為りかねませんからね。」

Kさんから、もうひとつ興味深い話題が出てきた。

昨年ねぶた作りを経験した2年生のち25、6人で「ねぶた」を5体作り、
10月中ごろ、京都市内にある「粟田神社・あわたじんじゃ」のお祭りに参加するという話だった。

さらにである。彼の口から京都の「粟田神社」に青森・津軽藩より古い「ねぶた」の話が伝わって
いて、100数十年ぶりに今年の祭りで「ねぶた復活」との話が出てきた。


歴史の話好きな私も、一般的な「ねぷたの起原」の知識はあった。
しかし、ねぷたは京都が先とは?まあ、何事にも諸説ある世界である。

京都は、至るところにお寺と神社のある都市である。
今年の2月に京都に移り住んだ私には、神社の方には失礼ながら、「粟田神社」の名前は初耳だった。

           「京都の街を、ねぶたが練り歩く」

いやはや、「世の中なにが起きてもおかしくない」と、常々思っている私である。

最早、「ねぷたの起原」やら神社の確認などの話は後回しである。

なにより、昨年、そして今年と2年続けて「ねぷたのない夏」を送った私にとって、この話題は

                 「ご馳走」である。

                 「俺も、行くべし!」で、ある。


大学生といえば、私が関わった12、3年前の、あの"ねぷたの子供"らと同い年である。

              「ねぶたをつくる彼らに会いたい!」

私は、K氏に私の思いを「そのまま」伝えたのだった。

彼は、私の申し出を笑顔で受け入れてくれた。


思いがけない「嬉しい出会いと話の展開」に、私は「大」の文字を思った。
振り向くと、うしろで一部始終を見ていた妻が、笑顔で一言。

           「拓ちゃん、よかったね」で、ある。

私たちは、互いに「ありがとうございました。」を、別れの挨拶とした。

           また、会えるときが楽しみである。


私と妻は、屋上を降りる前に高城家の娘さんと会い、「お招き」の礼を述べた。
「舞い手」の、渡守さん、黒田氏、K氏と楽しく話をしたことを、伝えた。

すると彼女は、「そうでしたか。それはよかったですね。」と、私たちを笑顔で見送ってくれた。


私と妻は高城邸を離れ、すっかりひと数の少なくなった鞍馬口通りを、紫明の自宅へ向かった。

私は、これまでの私の多くの出会いと体験が今に繋がり、さらに今宵の新たな出会いへと
繋げてくれたのだなと思った。

           「ねぇ、たまには近場の居酒屋で、どーお?一杯。」

私は、妻からの言葉にすぐさま「うん。いいねぇ。」と返し、ますますご機嫌になった。


鞍馬口通りを歩きながら私は、ゆっくりと夜空を見上げた。

高城邸に向かう時に見た、鈍よりとした怪しげな雨雲は、すっかり姿を消していた。

上空の風を目で追うと、振り向いた「大文字山」の遥か高みに、名残りの雲を残すのみであった。




時は流れ、この「大文字・五山の送り火」の夜から、一月余りの時を過ぎた秋晴れの日の午後、
       私は「大」の文字を目指し、秋風の京都の街へ自転車を走らせるのである。

次回へ・・・つづく。である。



「追記」

1・「出会い」について

私に高校時代、油絵を教えてくれた中島千之氏。
いまでも親交を続ける師が、卒業の際に私への送る言葉は「一期一会」だった。

私自身、旅好きが功じて多くの「出会い」を得ることになった。

「出会い」は、人生の旅の中にあると捉えれば、誰にでも「あたりまえに」あるものだ。

特別なことはない、普通に生きている中で、自分の思いのままに動けば必ず誰かと出会う。

自分に本当に「素直」に行動しつづけると、「出会い」は普通にやってくるものである。

本当の名前も隠し、本当の自分も隠し、本当の思いも隠し、本当の顔さえ見せない。

これでは、誰にも憶えてもらえない。 誰にも気づいてもらえない。
      誰にもわかってもらえない。誰にも会ってもらえない。

         これでは、あきらかに妄想ごっこでしかない。

「本当の出会い」は、生身のやりとりを続けることでしかない。
会えばわかる。 話せばわかる。 本当の思いを出し合うことで「本物」になるのだ。



2・ブログをかいて

・本文の中で、「火の番」の話がありました。

子供たちに出来たことなのに、大人が出来ないなんて。普通に考えてばかげた話。
「こどもは正直」なら、「大人だって正直」は簡単に出来るよね。

子供に出来ないって言ったら、「えーっ、できないの?だめじゃん。」って、間違いなくバカにされます。

もしくは、できない大人たちは、子供たちに足元を見られて、子供たちの「うそ」がばれても
叱る事さえできません。
           
           子供たちを「甘く」見てはいけません。

これって、見方を変えると、子供に親が「おしえて」もらっている状態ってこと?

           「子は、親の鏡」って言いますからね。


・「表現したい」と思うものを、「かたち」にするには、

あの手・この手で「考えて試してみる」こと、その繰り返しである。
繰り返しやり続けることで、知識に経験からの知識が加わり、いいものになるのです。
            
        あの手、この手のノウハウは、なんでも共通である。

これだけ世の中に「ありえない」ことが、起きている・・・目の前に「ある」のだから、

           「なにが起きても不思議はない」

「できそうもない」ことが・・・出来ても、なんの不思議もないのである。

やる前から、「できない」を言う人は、「やりたくない」と、言うべきである。

正しくは、「自分は、責任を執りたくない」と、言っているのだ。



3・「大」の送り火に見えたもの

雨上がりの暗い山影のなかに、浮かび上がった「大」の字は、交差した中心部から
しっかりとした火の手を上げ、五つの方向へ「その光」を放つように広げていった。

「人」の字は、支えあう・もたれあうの字ではない。
        ひとりで立っているヒトの姿である。

己の内なるものを放てば「火」となり、腕を開けば「大」の字が「光」の字となるのだ。

自分の外に求めた「光」など、所詮「まやかしの光」でしかない。

「本当の光」は、自分の心の中に創った「苦しい闇の奥」にしかないのである。

内なるものとは「素直」である。 「正直」な思いである。 「自分の本心」である。

              それは、「真・マコト」の心である。

薄汚れた心では「光」など放てない。 自ら「こころ」を磨かないと「闇」のままである。

        自分で汚した「こころ」を磨くのは、他の誰にも磨けない。

        どんなに苦しくとも、磨けるのは「自分」しかいないのである。


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火祭りのいいつたえ・1「大文字の扉」
2008/10/16(Thu)
京都の街は、早くから「大学の街」と呼ばれている。
京都市内だけでも、短大を含む大学の数は36校にものぼる。「学生の街」である。

9月も半ばを過ぎたある日のことである。
正直なところ9月に入ってからの私は、日々のスケジュールの中で少し焦りを覚えていた。

私には、頭の中から離れないことがあった。
それは、京都の東・京都造形芸術大学では、大学1年の若者たちがすでに「ねぶた」造りを
始めているからだった。
そしてこの日、私はようやく大学と「アポ」を執り、彼らのもとへ自転車を走らせたのである。
          
         
           「ねぶたを造る若者たちに会いたい」



この話の始まりは今年の8月、京都・「大文字五山送り火の夜」にあった。

       その夜から、「火祭りの扉」が開き始めたのである。


私は、今年の6月から仕事仲間と共に、京都市内で街頭活動の「聞く屋」を始めた。
「聞く屋」は、街行く人たちに「何でもいいです。何でも聞きます。」のスタンスで、
中・高生から高齢者までの様々な方と、自慢話から悩み事まで「聞く」仕事である。

          ただし、お代は「お気持ち」である。

今では烏丸北大路にて、仕事帰りの人たちの目を集めるほどになり、幾度となく足を運ぶ人たちも
現れている。

その「聞く屋」での出会いが元で8月上旬の夜、鞍馬口にお住まいの高城さん母娘から、
ご自宅へのお誘いを受けた。

   「五山送り火の夜、自宅の屋上から大文字・妙・法・舟形の四つが見えるんですぅ」

   「今年は娘のお友達の方が、大文字をバックに舞いをされるんですが、
             何かの御縁かもしれませんし、ご都合がよろしかったら、きませんか」


       ふたりからの笑顔の申し出が、私は素直にうれしかった。

       そして、「よろこんで、伺います」と、私と妻は笑顔で答えた。


当日は、午後から何度かの雨が降り「五山送り火」が危ぶまれたが、
なんとか夕刻からは雨もあがり、私はスイカを片手に妻とふたり、出掛けることにした。
紫明の自宅の裏手にあたる鞍馬口通りは、まだしっかりと路面の窪みに水溜りを残していて、
私は怪しく雨雲を残した夜空を時折見上げ、「降るなよ」と、念じたのだった。

京都の中心を南北に伸びる烏丸通りを渡ると、東の「大文字焼き」を見ようと、
賀茂川の河川敷へ向かう浴衣姿の若者や家族連れの、先を急ぐ下駄の音が賑わい出した。

      「拓ちゃん、スイカ落とさないでね」

      「うん」  私はすぐさまスイカの下に、左手を添えたのだった。

      私も、右手に食い込むビニール紐のビミョウな感触に、気づいていた。
      妻は、そのへんの事は見逃さないのである。流石である。


高城さん宅に着くと、3階建ての外階段から会場である屋上へと案内を受けた。

このイベントは、「Daimonji~ 精霊たちの送り舞~」と題されていた。
「舞い手」は、渡守希・ともりのぞみ氏である。


会場の南東角の床には2間四方程の敷物があり、その奥角にはすでに、
ひとりの白装束の女性が椅子に座り、薄明かりの中で静かに「その時」を待っていた。

先客たちは、舞台とは少し間を空けてフェンス際に設けられた敷物に座っていた。

私は、横並びの観客たちの真ん中の席に座る形になった。
その席は、「舞」を始めようとする彼女の、ちょうど真正面の位置だった。

「舞」が始まった。

真東の山に一点の火の手が上がり、それは五つの方向に広がり、
やがてはっきりとした「大」の字を現わした。「舞」は、15分程のものだった。
「舞」の意味は解らずとも、彼女の足裁きと要所要所に魅せる「技のキレ」は、見ごたえのあるものだった。

舞台のスペースがもう少し広く取れれば、彼女はもっと伸びやかに舞うことが出来ただろうと、私は思った。

「舞」が終わり、観客たちの拍手のあとは、会場は四つの送り火を眺める時間となった。

     
     通称・「大文字焼き」と呼ばれる「大文字五山送り火」は、
     「大文字」・「妙・法」「舟形」「左大文字」・「鳥居形」が、五つの山に浮かび上がるので五山だが、
     数えると妙と法が分かれるので、六つ見えることになっているのだ。

私と妻は、一通り送り火を眺めると、一番目に見た「大文字」を燃え終わるまで眺めていた。

しばらくすると、「五山送り火」はお開きの時をむかえ、観客たちも帰り支度となった。
階下の鞍馬口通りからは、早くも家路に向かう人の声と下駄の音が聞こえ始めていた。

私の目の前には、「舞」を終えて頭の被りをとった渡守希さんが立っていた。

     私の中に、彼女の舞台スペースを目いっぱいに使いきった
     「舞」の労にふれたいという思いが、込み上げてきた。

なのに私は、ちょっとだけ躊躇した。「でもな、初対面なのに・・・・・」ってね。
私は、すぐさま自分に問うた。
             
             「おい、お前本当はどうしたいんだ」
             「で、お前どうすんだ」・・・・・・・・・ってね。

思い切って「おつかれさまでした」と声を掛けた。
そして、自分の思っていたことを彼女に伝えたのである。。

すると彼女は、にこやかに応えてくれたのである。

    「ええ、そうですね。でも、客席のスペースもあったから、どうしても舞台のスペースは
     これがギリギリだったんです。」
    「私としても、かなりきびしい条件のなかでの舞いでしたね。」

    
私は、改めて彼女に自己紹介をした。
会場の高城さんとの出会いの事に始まり、その御縁でこの夜、高城邸に来たこと。
永い東京時代に舞台やイベントにて美術としての経歴があったことである。


実際、舞台の裏方の役目は、「見てくれ」の美術効果だけでなく、様々な条件において如何に演じる側に、   出来る限りいい条件のなかで、演じられる時を提供できるかである。
それが、お金を払った観客たちへの満足へと繋がるのである。

私は、これまでバレエ、日本舞踊、ジャズダンス、民族舞踊など様々な踊りを、仕事を通して観て来たが、
「神さま事」の舞いを見たのは今回が初めてであった事を付け加えた。


私は、舞台の手前のL型二辺の床に置いてあった照明に興味を持った。

     「この照明器具って、何で出来ているんですか?光源は何をつかってますぅ?」
     「あと、この灯りの見える一面だけに張ってあるフィルターって何を使ってるんですか?」
     「あっ、私ね。21・2歳の頃に一年半くらい舞台照明の仕事をしていた事があるもので」

彼女は、にこにこしながら、私の質問に答え始めた。

     「これってね。外の箱のところは、缶ジュースのダンボール箱なんですよ。」
     「中の電気はふつうの電球でぇ。フィルターのところは和紙なんです。」
     「あっ、これを作ったのは彼なんです。ねぇ、黒田君ちょっと」

彼女の呼びかけに、裏方の匂いを感じる若者が来た。

今度は、黒田さんが加わり、3人の会話が始まったのだ。
     
     「おつかれさまでした。」
     「うまいこと作りましたねぇ。」
     「えっ、箱の黒いところって黒のガムテープだったんだ。暗くてぜんぜん判らなかった」

     「間に合わせで作ったにしては、なかなか・・・でしょ。」

彼の話によると、照明器具だけでなく、舞台スペースと客席スペースの敷物も
当日になってすべて彼が用意したとの事だった。

     「いやぁ、今日になってから全部そろえるなんて」
     「やりますねぇ」
     
     私は、すぐに彼のことを気に入ってしまったのである。

私にとって3人での会話は、ますます楽しくなってきた。

私は、彼の作った照明器具について、私が感じたことを話始めた。

     「時間がない中で、さくっとコレを作れるのはすばらしいですね」
     「コレって、一面だけ和紙をフィルターにして、やわらかい灯りに、したんですよね。」
     「会場も、今回は一般のお宅だし、ふつうの電球だったら、電気容量も問題ないし・・・」
     「私、思うんですが、もしですね。」
     「もし、もっと製作時間もあって、電気が使えない所で照明をやるときには、
      光源をローソクにすればいいですよ」
     「もちろん外側は燃えないものを使って、ちゃんと通気と熱逃げの事も考えれば・・・」
     「ローソクの炎って、ゆらゆら揺れたときの加減が、なんともいい感じで、
      今回のような作品の公演をまたやるときに、幻想的な舞台の照明効果として、
      いい感じが出せると、私は思うんですよ」

私のローソク行燈の話を聞きながら、渡守さんはニコニコして頷いていた。

     「わー。ローソクを使った照明の舞台。やってみたい」

     笑顔の彼女は、すでに先々の舞台のイメージを膨らませているようであった。


             「和紙」と「ローソク」といえば・・・・・あれである。

私の場合、この組み合わせは「ねぷた」に繋がるのである。

私の話は、弘前ねぷた団体・「必殺ねぷた人」での体験ばなしになる。

     「実は私、20年近くの間、青森県弘前市のねぷた団体に参加していたんです。」
     「団体の名前は、必殺ねぷた人って言うんですけどね」


私の口から飛び出した「ねぷた」の響きは、目の前のふたりの表情に変化をあたえた。
ふたりは、瞬時に目を合わせると、離れた観客たちの中へ声をかけた。

                  「その時」

私はあきらかに3人の会話が、新たな展開を迎えるのを感じていたのである。


この先は、次回へ・・・・・つづく。である。
                                            



「追記」

1・「聞く屋」
本文に記載のTLC匠の街頭活動「聞く屋」に関する情報は、
TLC匠のホームページをご覧下さい。

実際にどんな話の展開になるかは、人それぞれ違うので、知りたい方はまずご自分で
確かめてください。
だって、あなたの事を、あなた以上に正確に語れる人はいないのだから。
お試しあれ。


2・「大文字」
「大」の字は、「舞い手」を務めた彼女自身であり、パンフレットにあった「人生の扉」
「こころの扉」を開いたかたちなのだと、私は思う。

「大」の字は、20代から30代中ごろまでの、私が好んだ昼寝の姿でもあった。
あえて今の私に、のびのびとした時はいらない。



3・ブログを書いて

人と人の出会いは、私が多くの「旅」で学んだことである。
私にとって、「聞く屋」はもちろんTLC匠の活動すべてが「旅」そのものである。

高城さんとの出会いが、渡守さん黒田さんらへと、そして・・・・・。


渡守さんとの会話の始まりは、「躊躇・でも」をあの時思い切って突破したことに尽きる。


あとは会話のなかで、私を自らのこれまでの体験がバックアップをしてくれたのである。

「自分が思ったことを、素直にやる」  これが本当の生き方のための「必須」なのだ


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紫明通りに政風の吹いた日
2008/10/13(Mon)
京都といえば日本の善き食文化を支える京野菜が有名である。

市場にまで行かなくとも、市街地にはそれなりにスーパーマーケットがあり、
私の住む北区・紫明界隈でも、買い物にはさほど困る事もない。
昼も3時を回り、妻がスーパーの買い物から帰ってきた。
妻は、自ら料理嫌いを公言しているが、「くいしんぼう」が好転してか、

「どうせ食べるなら、自分の口に合った美味しいものがいいでしょ」ってぇことで、
料理本を見ながらではあるが、彼女の永年の味へのこだわりは、うれしい味となって
おのずと私のお腹を満たしてくれるのである。


買い物袋の食材の中に、秋の果物・梨とみかんが見えた。
ビニール袋入りのみかんは、皮がまだ青いものだが、早速頂いてみると、
実の方は、じゅうぶんな甘みであった。
私は、パソコンでニュース記事を見ながら、すでに2つ目のみかんを頬張り、
なつかしい味と青い皮の独特の匂いを楽しんでいた。

     「むかしね、オレがまだ小学校の低学年の頃、鹿児島産のみかんで”さつまアーリー”って
      いうのが有ったんだけど、似た感じだね」

「あっそう。わたしは覚えてないな。でもそれって、たぶん早生みかんね」

テーブル越しに目をやると、妻も青いみかんをモグモグしているのだった。


「みかん」は私と関わりの深いものである。
私の生まれ育った鹿児島県出水市は鎌倉時代より島津家発祥の地であり、
NHK大河ドラマ「篤姫」ゆかりの地でもある。
出水地方は昭和30年代から、温州みかんの栽培が盛んになった「みかん処」である。


昭和36年の4月3日、私は農家の長男として生まれたのだが、
幼い頃より両親から聞いた話によると、当時の我が家は、みかん園をつくるため、父方の祖父母と
両親らの手で野田町の西に広がる「お伊勢山」と呼ばれる丘陵地を切り開いていたとの事である。
一家総出で竹薮だらけの地を「開拓」し、みかんの苗木を植える頃、私は生まれたらしい。
母は、出産前日まで働いていたとのことだった。


私の名前「拓美・たくみ」の由来は、開拓の拓の字とみかんのみを美に表したのである。
まあ、そんな事で私といえば高校卒業後、上京するまで当たり前のごとく家業を手伝いながら、
私は同い年の「みかんの木」と共に育てられたのである。

のちに、両親は家業を継がない私の生き方に、辛い思いをしたと思われる。



パソコンのニュース記事に目を通していると、なんとも「馬鹿げた」記事を目にした。

     下記の記事は、毎日新聞社の毎日JPから、転載したものである。

◇蒟蒻畑、製造中止に
こんにゃく加工品メーカー「マンナンライフ」(本社・群馬県)は7日、兵庫県の1歳男児が
今年7月に食べ窒息死したミニカップ入りこんにゃくゼリー「蒟蒻(こんにゃく)畑」の
製造中止を決め、卸売会社に通知した。マ社品質保証室は「警告マークを大きくするなど
行政に要請された改善策に応じられないため」と説明している。製造再開のめどは未定。
全日本菓子協会によると、こんにゃくゼリーの売り上げは07年度約100億円で、
うち約3分の2がマ社。マ社の売り上げの約9割は「蒟蒻畑」が占める。

          まあ、なんともこの事故後の行政の対応には、呆れる。

関連記事を検索して見ると、野田聖子消費者行政担当相は30日午前の記者会見で、
新たに兵庫県の男児が こんにゃくゼリーをのどに詰まらせて死亡したことを受け、
販売禁止措置を農林水産省に 働き掛けるかどうか検討する考えを明らかにしたとあった。
また、野田氏は「痛ましい事故だ。諸外国がどのような措置を取っているか
調べているところだ」と 述べた。再発防止も重ねて要請していく意向も示したとあった。
   

この対応からすると、早い話が「マンナンライフ社」を潰してしまえという扱いである。
毒入り食品とは訳が違う。こんな対応しか出来ないのでは、餅やキャンディに限らず、
人が食べている様々なもので、これからも起こりそうである。


単純に考えて、食べ物を口にして喉に詰まらせて死んだ場合、
「生産者」に同じ対応をするようであれば、多くの食品会社にこの事があてはまり、
おのずと会社倒産や売り上げ激減により人員削減などから、失業者が増える。
また、飲食店でも同じ事になるのか。その場合、料理人も失業なのか?となる。
要は、商品だけが「悪者扱い」ってこと?


私は、酒好きなのだが、若い頃会社の飲み会で酔った先輩に”しこたま”飲まされて、
恥ずかしながら急性アルコール中毒になり、病院送りとなった体験がある。
その時の医者の話では、運が悪ければ「あの世行き」との事だった。

毎年どれだけの人が、飲酒によって命を失っているかは調べもしないが、
大学生のコンパでの「イッキ飲み」による急性アルコール中毒死は、
平成になってからでも、56人のデータがある。

今回の対応が正しいのなら、この世から「酒」が消える「馬鹿げた対応」を、
すでに行政は執っているはずである。


もっと云えば、「商品」によって死亡事故になった場合、たとえばクルマだとトヨタ・日産・ホンダなど
メーカーは、ドライバーの過失だろうが、「生産中止」にするってことなる。
今回の行政の対応がまかり通るのであれば、これまでに起きた死亡事故のため
「世界のトヨタ」に対して、「クルマの生産中止」を、とっとと言うべきである。


「こんにゃくゼリー」を、永年食べ続けて体調良好の人たちがいても、
死亡事故が時々起きたら、「悪者扱い」の商品ために、企業は「製造中止」の扱いをうける。
だとすると、
「クルマ」を、永年事故も起こさず快適な生活の人たちがいても、
自動車事故が起こした多くの死亡事故だから、これを単純に当てはめると、
「悪者扱い」の商品のために企業はすでにクルマの「生産中止」になっていたはずである。

     「こんな話、子供でもわかることではないか。」である。



私にも喉に食べ物を詰まらせた話がある。
私が母から聞いた、私の幼少時代の出来事なのだが、夏になると父は畑でスイカを
手広くつくっていた。
ある夏の日、私は父の作ったスイカを食べて、「スイカの種」を喉の気管に詰まらせ、
大急ぎで最寄の開業医の所へ行き、なんとか助かったことがあった。

     当の私は、その記憶はまったくないのである。


もし、スイカを食べて死亡事故になったら、いいところ「警告シール」の貼り付けが義務付けになり、
それでもダメならやはり「生産中止」になり、日本の夏から「スイカ」は姿を消すのであろう。


この問題解決について大臣は、「子供たちにあたまを下げて」教えてもらえばよいのである。

ただし、大臣はクビである。後任は、とりあえず児童会長を私は推薦する。



これ以上、わざわざ「馬鹿げた」問題を作らなくても、・・・・・。である。


     「問題解決」とためと言いながら、こんな政治をやり続けた先を、想像すると
     こんな母と子の会話が聞こえてくる。

「おかあさん、おなかすいた。なにか食べる物なぁい?」

「無いのよ、今は。」

「おかあさん、おかあさん、ねぇおかあさんってば」

「うるさいと、おまえを食べるよ。ったく。」

    なんでもかんでもルールづくりばかりするから、問題が増えているのだ。
    「問題だ、問題だ。」と、いってたらそのうち食べる物も無くなるのである。




すでに妻は、キッチンで夕飯の支度を「せっせせっせ」と始めていた。

カウンターの食材と、リクルーゼの赤いお鍋ってことは、・・・・・・

どうやら今夜は、私の大好きなクリームシチューのようである。

         「うほほい」である。


窓から、ヒンヤリとした風が吹きこんできた。

仕事部屋の窓に立つと、紫明通りの銀杏並木が夕陽をあびて秋風に大きく揺れていた。


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