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「俗に、余世というが・・・・」
2011/06/29(Wed)
俗に余世というが、五十の齢となった今の私なりに考えてみれば、
私にとっての余世とはこの世に肉体を以って生まれた時からであったと云える。

やるべきことを先伸ばしにし続け、やり残していたことをやるために生まれた。

忘れていた本来の自分を思い出すために生まれてきた。

離れ離れになっていた魂レベルの仲間たちと再会するために生まれてきた。

封印され続けていた事実と向きあうために生まれてきた。

視点を換えれば、私が封印した側の者であるが故に、「お詫び」として封印を解く機会を授かった。

不可思議ずくしの出逢いと体験は今も続いており、不可思議ではなく「あたりまえ」であったと考えれば、
私の人生のすべての出来事が「なるほど!」となる。

私ひとりでは、この一生ではあまりにも困難な「解封」である故に、「類は、友を呼ぶ」という言葉どおりである。
互いが手の届かない部分を補い合える「魂レベルの仲間との輪」が続いているのである。

私が人生に於いて、導かれるが如く旅を続けたいという欲求に包まれている理由(わけ)である。

これまでのシステムが崩壊へと向かっている今、「気づく」から「新たに築く(元に戻す)」流れであることは、
目に見える社会の事象が証明している。

「人は石垣、人は城」とは、戦国武将のひとり甲斐の武田信玄である。

人と人の出逢いが「築く」ことへの一番の近道である。

これが今の、私の「答え」である。

「答え」は、いつも伝播していく。

想いというエネルギーとは、本来このために使うモノである。

世はまさに幕末から戦国期まで重なり、いづれ平安期へと時代を重ねる時節を迎える。

戦を終わらすには、皆が己との戦を経て「友」と成すまで己に詫び、

お詫びの証しを行動として示し続けるのみである。


我が号令は、「者ども、出逢え!」である。




かつて三たび、笹子峠を越える旅をした。
「風林火山」と「レッドクリフ」・・・・・キーワードは、いつも目の前にある。



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「点地想贈」・・・新燃岳噴火は、大地の狼煙
2011/02/04(Fri)
前回の・・・・・つづき、である。


今、私が知るこの世の中、この世界には「驚愕の事実」がある。

私は、日本人として生まれたのに、日本のことを「知らないまま」にしていた。
私は、この世に生まれたのに、この世の中の本当のことを「知らないまま」にしていた。

今の私なりに正しく表現すれば、「シロウトも、してこなかった」となる。
つまり、「頭無の、素人・ずぶの、しろうと」である。

私は今、この世界に対し私がしてきたことの愚かさを、「想い知る」時を迎えている。

「驚愕の事実」とは、いつも、恐ろしい出来事を招くことになった「原因」である。

「もっと早い段階で、知っていたら・・・」って、云われてもご縁である。
「もっと早い段階で、云ってくれたら・・・」って、云われてもご縁である。

覚者が、シツコイくらい云い続けても「聞いとらんかったもん( 者たち )」のタワゴトである。
覚者を、「素人扱い」し続けた者たちが使う「いい訳」の決まり文句とは、
「だって、知らんかったもん ! 聞いとらんかったもん ! 」・・・である。

テレビドラマ「ギルティ」の最終話では、
現在の日本人の「想い」に対する無関心さが如何に恐ろしいことかを「驚愕の事実」として描いていた。

「たった一人」の女性が抱いた自分勝手な「おかしな想い」が、やがて国家権力をも巻き込み、
多くの人々を「恐ろしい結果」へと導く「原因」となっていることを見事に描いていた。

「まさか、そんなことで・・・・・」とは、
最悪のラストを迎えた主人公が、「原因」を知り思わず口にした言葉である。
ゲに、人々が創り出している「おかしな想い」の恐ろしさである。 


では、本題に参る。

「天にツバを吐けば、自分に返る」と、云われてきた。

「大地にツバを吐けば、自分に返る」・・・ご自所為である。


地球が「生命体」であることは、もう知られている事実である。
日本列島が、その地球の一部分である以上、この大地とて「生きモノ」である。
私を含め大多数の日本人は、この「眠れぬ龍の背中」にて暮らしている。

大地が、「気」を放っている以上、ソコには「意識」「想い」がある。
大地は、人間とは違い、言葉を用いない方法で「意思表示」をしている。
大地は、人間たちが気づかないところで、常に人間たちの情報を得ている。

日本の大地と、日本人は目に見えない「意図」で繋がっているのである。


つまり、日本の大地は、我々の想いも行動も「筒抜け・お見通し」なのである。
何故なら、元々この世界とは、言葉の要らない「想いの世界」だからである。
本来の世界は、「想い」「気」によってコミュニケーションが可能である。

言葉とは、コミュニケーションの補助的役割を担っているに過ぎないのである。
自然界を見渡せば、容易にワカル話である。


日本の大地は、「ちゃんと、ワカルように」目に見えるカタチで意思表示をする。
「母なる海」である。「父なる大地」である。
日本の大地は、「父と、ワカルように」目に見えるカタチで「想い」を現わす。

私は、日常の生活の中の「見た、聞いた、感じる」という体験に於いて、何かしらのキーワードに反応するクセがある。
私が反応した「キーワード」には、時として「驚愕の事実」が含まれている。

今回、私が反応したのは、一月下旬の東京・秋葉原の「歩行者天国の再開」のニュースと、
その数日後に「新燃岳の活動再開」のニュースである。

この二つの出来事は、関連性を持っている。

日本人の発している「狂気」に対する日本の大地の反応は、これまでとは比較にならない程、スピードアップしている。

つまり、日本の大地が意図的に「緊急の警告メッセージ」を発したのである。

日本が本当に「ヤバイ」時期になっていることの現れである。


秋葉原の「歩行者天国」が中止になった切っ掛けは、あの「秋葉原通り魔事件」である。
狂気の沙汰は、「萌え」に沸き立つ狂気の地で起きた。

事件現場となった秋葉原は、「歩行者天国」から一変して「歩行者地獄」の絵図と化した。
つまり、この事件により、この世が「ニセ天国=地獄」である事実が露呈したのである。


「ニセ天国の再開」は狂気の再開であり、天国への道とは「真逆・まぎゃく」の方向にて、
地獄より下の「最下位」へ真っ逆さまだと気づかぬ日本人が「汚点徒さま」であることの証明となっている。

事件の真意も明らかにしないまま、「歩行者ニセ天国の再開」を始めたのは、
結局は秋葉原ブランドの「目先の金、目当て」である。

事件を引き起こした青年の「真実」も、青年によって殺された7名と怪我を負わされた10名の方々の「犠牲」も、無かったことにするのは「目先のお金」のためってことである。

「また、やっちまった・・・よね」

その「トバッチリ」を受けたのが、新燃岳と宮崎県の方々である。
長年に亘り、現地で暮らしてきた人たちにとっては、「まさか」である。

九州・霧島連山にて活発な火山活動をおっぱじめた「新燃岳・しんもえだけ」により、
宮崎県側の山麓と市街地は、霧の如き火山灰の降灰にて「霧灰だらけ」である。

霧島連山は、私の故郷である鹿児島と隣県宮崎との県境を成している山脈であり、
「新燃岳」は山脈の中程に位置している。

この季節なれば、風の本流は北西であるため噴煙・火山灰は、自ずと宮崎県側へと流れるが、
火山活動が長期化すれば風向きも変わり、鹿児島県側とて「明日は、我が身」である。


一週間前、私は「しんもえだけ」という、ちょっと変わった山の名前を耳にしたとき、
一瞬だけ秋葉原の「萌え?」となった。
直ぐに、「燃え」という字に修正したが、「モエつながり」だけではなく、「再開つながり」も含まれていた。


霧島連山の火山灰なれば、正しく霧の如き「霧灰・きりばい」である。
雪山でも14時間もつホッカイロと云えば、「桐灰・きりばい」である。
冬場の「必需品」なれば、世に出回ると云う「シロモノ」である。

こうなると、
日本の大地からの「メッセージ」であることが明確になってくる。

出来事が起きた時期は共に「一月」、即ち「新年」であり、火山の名前は「新燃」である。
「真念を忘れた民」或いは「信念を持たなくなった民」と成り果てた現在の日本人に対する、日本の大地の想いは「思い出させ !」「モトに戻れ」である。

日本人が、心を、想いを、気を、行動を、社会全体を「荒廃」させている現状は、
火山灰の「降灰」にて事実を知らし示しているのである。

火山噴火による振動が大気に影響を及ぼす「空振・くうしん」なる専門用語を耳にしたが、
マサシク「日本人の気が振れている」事実を示している。

この新燃岳は、かつてハリウッド映画の「007シリーズ」にてロケ地に使われた所である。
「暗号解読」に適したポイントである。
暗号解読しやすいデータ(キーワード)までも、シナリオに盛り込んでいる。

これは、もう日本人にとって、笑えない時期に来ていることを示している。

日本の大地がメッセージを発するとき、最大限の効果を求め、
強い「インパクト」の表現を完璧なタイミングで実行するのである。

然るに、大地としては「それ相応の狼煙・ノロシ」とせねば意味がない。

現在の現地の方々の苦労を思えば、本当に失礼な表現ではあるが、「新燃岳」という火山の名前は、
日本の大地にとっては日本人を「叱るには、もってこい」のキーワードポイントなのである。


「叱るべきときとは、然るべき時であり、然るべきモノが、然るべき手を用いて叱るべし」

「ヤバイ言葉である」
私は今、この記述を書きながら、正直なところ言葉の恐ろしさを感じている。

日本の大地は、日本人の「失然・失念」に対し、「叱然」を用いる。

人智を超えるとは、マサシクこのこと( 叱燃 )である。
自然界のシナリオは、「必然=あたりまえ=叱然」である。

今の世の中、このような時節であるから、私のように「感じ取る者」はアチラこちらにいるはずでアル。

「永山さんよ。そんなの、解っていたよ。何、今頃云ってんだ ! 」って思った方、
その方たちには、それなりの責任を「キッチリ」執って貰わねばなるまい。

「とおの昔」っから知っていたヤツらが、いつまで経っても教えないからこうなるし、
「とおの昔」っから、感じ取っていたヤツらが、「漢字、盗って」呑気に遊んでいたから・・・・・の結果である。 

もう一度述べる、その方たちにはそれなりの責任を「キッチリ」と、執ってもらわねばなるまい。

日本は、ヤクザ・任侠の国である。責任の執り方は、「オトシマエ」である。

だからと云って、私にも責任がない訳ではない。
何故なら、私はここに至るまで「知ろう」と、してこなかったのである。
私は、その責任として「素人・シロウト」なりにでも、今、述べているのである。


疑い深い読者のために、もう少し学問的に述べることにする。

地球上の3割は陸地、7割は海(水)だと「トリアエズ」云われているがウソである。
今の私なりに表現すれば、10の陸地の上に見た目7割の海である。
( 10と7の数字は、秋葉原の被害者の数である)

人体の7割も水分(水)だと「トリアエズ」云われているが、怪しいモノである。
ここで云えることは、地球と人間は「水」によって繋がっているということである。

地球と大地と人間を繋ぐものとは、「水」だけに及ばず、「大気」だけに及ばず、
目に見えない「想い」「思考」・・・・・全てのところでも繋がっている。

私とてこの通り「想い」を語り、「意思表示」することくらいは出来る。
地球とて、「訳あって」体温調整をし続けているのである。
「想い」を言葉にして語らずとも「意図」することあれば、それ相応の「意思表示」をするってことである。

それは、地球が優れた「生命体」であるが故である。

そもそも地球にとって人間など、スケールから云えば、人間にとっての「蟻んこ」どころか、バクテリアのレベルである。

地球にとっては、バクテリアレベルの現在の我々人間如きが、常々「何を想い、何をしているのか。
どんな結果となっているのか」など、すべてお見通しの筒抜け状態なのである。
ちょっと考えれば解ることである。

ここで読者に「まさか・・・そんな、バカな」という思いが出たなら、既に毒が回りつつある状態である。
早急に解毒されることをお勧めする。

因みに、水の中にはハナっから「バクテリア」がいる。
つまり、人体の中には、ハナっから「バクテリア」がいるのである。
バクテリアは死骸となっても、水分を得れば再生し、活動を再開する。
バクテリアは、塩素でもへこたれず高熱のマグマの中でさえ生息している。

バクテリアは、溶鉱炉で溶かした「鉄」の中でも、しっかり生きている。
凄まじいスピードで「生と死、崩壊と再生」を繰り広げ、死ぬ直前に「全データ」を次のバクテリアに手渡し続ける優れものである。

だから、カタチを保てるのである。
この話、既に工学の分野でも生物学の分野でさえも、「とおの昔」から一般的常識である。

つまり、地球と人間が「バクテリアつながり」でアル以上、バクテリアは人間と地球という生命体との「連絡係」ってことである。

視点を変えれば「情報屋・運び屋・隠密・スパイ」である。
人々の「おかしな想い、おかしな気、汚れた想い、汚れた気」は、データとしてバクテリアが完璧に大地に、地球に伝えているのである。

地球という生命体が考案した「情報収集ネットワークシステム」は、完璧である。

私は、前回のブログ記事にて人々が抱いた「想い=想念」と、人々が発している「気」が大気中へと溶け込み、自然現象に影響を及ぼしている事実を述べた。

人々が発した「気」が、どれほどまでに「汚れた気」であるかを考えたとき、
その「気」は大気中にて水分を得たのち「雨」となり、再び地上に降り注ぎ大地の地中深くまで浸透する。

地球という生命体にしてみれば、日本の大地にしてみれば、
「汚れた気の水溶液・雨」が地表に降り落ちた時点で、既に何らかの「想い」を感じて居よう。
それが、体内とも云うべき地中深くまでやって来たら、「ストレス」を覚えざるを得ない。

しかも、人々が自ら作り出した「ストレス」を含んだ雨である。

「雨水を飲んだら腹を壊す」のも、道理である。
「雨に濡れれば、風邪を惹く」・・・病は「気」からである。

「天にツバを吐けば、自分に返る」と、云われてきた。
「大地にツバを吐けば、自分に返る」・・・ご自所為である。

地球にしてみれば、日本の大地にしてみれば、常に「苦汁」を飲まされ続けているってことである。
「タマッタモノ」ではないとなるのも「あたりまえ」である。

地球にしてみれば、マグマ溜まりのマグマとは、自ら溜めたモノではなく、
人々の「汚れた気」によって「溜めさせられたモノ」ってことである。

「マグマだまり」は、いうなれば「大地の堪忍袋」である。

地球が、大地が、「内面に溜め込んだエネルギー」を最も有効に使うために、
情報収集ネットワークシステムを駆使して、最も解り易い条件を備えた「ピンポイント」を探し出し、
無駄のないタイミングで解き放つのである。

その情報(地球の想い、意図、意思)は、
地上にて愚かさを改められるのに改めようとしない「汚点徒さま」に対し、
それ相応のカタチでお返ししているに過ぎないのである。

モトはと云えば、私を含む日本人が「内面に溜め込んだ想い」が原因である。

地球という生命体を、日本列島という大地を、「叱燃」の状況に追い詰め続けている「原因」とは、

私を含む日本人が抱いた「おかしな想い」、
私を含む日本人が発した「汚れた気」、
私を含む日本人が吐き出した「狂気の行動」である。

地質学者や火山の研究家たちの「能書き」では、本当の原因には辿り着けない。

「天災呼ばわりするとは、片腹痛いわ」とは、日本の大地「眠れぬ龍」の言葉である。


「想いの話」は、つづく。

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「気象・・・天決」
2011/01/31(Mon)
年明けから早くも一ヶ月となった。
先日、あの「まさか」の大地震「阪神淡路大震災」から、もう16年の時が経ったのかと思っていたら、
もう暦も二月になろうとしている。

年明け早々世界各地で起きた「火山による被災」「大洪水による被災」などが伝えられたが、
そのことなど忘れさすかのように、この日本国内でも火山噴火による惨状や、
記録的な大雪による混乱・事故のニュースが連日届けられている。

現地の方々の苦労を思えば、本当に「気の毒」な話などと「今」云っていられるのは、
現地の災状に直面していない私を含む者たちの無責任な言葉であり、
早い話が現地の人たちにとっては、戯言であるからご注意を。

非当事者にとっては同じ国に住んでいながら、自分の日々の生活は見た目には何の変化もなく、
結局はなんだかんだと言いながら「対岸の火事」としか感じておらず、腹の中には

「トリアエズ、今の自分には関係ない。当事者でなくってヨカッタ」という「我善し」の想いがあるってことである。

「まさか・・・・こんなことになるなんて、ありえない。信じられない」とは、
「無関係」のところに居る者たちが、いざ自分が当事者になったとき、必ず口にする「決まり文句」である。
自分の目で、「直に」見ているのに・・・である。

また、自分にとっての不都合の度合いが高くなるほど、必ず「お決まりの問句」を恥ずかしげも無く口にする。
「なんで、私がこんな目に遭わなければならないの!」と・・・ね。
ここまで来ると、「バカ丸出し」としか云いようが無い。


出来事・事象・現象は、すべて「結果」である。
それならば、そこには必ず何らかの「原因」があるということである。

「自然現象」と云えど、同じである。


「気象」とは、書いて字の如し。「気の象れ」である。

この「気象」とは、これまで自然現象のことだとマコトシヤカニ云われ続けてきたが、
全く本当のことが解っていない者達の「戯言」だったのである。

読者の方々が、「何をバカな・・・・」と、云えるのも今のうちである。
何故なら、私は、私の実体験と日本語の持つ言葉の意味から「裏づけ」を取っている。

よく、テレビの天気予報にて気象予報士が「大気が非常に不安定な状態です」という。

その「原因」は、・・・・・と言うと、「気圧配置です」止まりである。
何で、・・・その「気圧配置になったのか」という原因説明は、一度もないままである。
つまり、気象予報士とは「気」について解っていないのである。

また、観測史上稀に見る猛暑・酷暑の日が続いたり、豪雨・大雨による洪水、竜巻や突風だけに留まらず
とてつもない寒波や大雪になると、「異常気象となっています」の言葉で、いとも簡単に片付ける。

それを、聞いた大多数の者たちは何の疑いも無く納得しているのが現状である。

何で、・・・その「異常気象になったのか」という原因説明も、如何にも尤もらしい「地球温暖化」という
「ウソのデッチアゲ」だけで、おしまいである。
「でっちあげ」は、昔から権力者と欲謀り(よくバカ利)の連中に騙され脅された一部の学者の「得意技」である。

地球は、生命体だって云っているでしょ。私だって体温調整出来る。
だから、地球も「訳あって」体温調整しているってこと。


昨年の夏、日本列島は「歴史的猛暑の夏」であった。
あまりにも、日本中で「暑い、暑い」と文句をいうから、
「じゃあ・・・お望み通りに」ってことで記録的豪雨があり、日本各地で「大雪」ってことである。
不景気で仕事が無いっていうから竜巻と突風で、ご丁寧に対応して頂いたってこと。

「ツケ」を払わされている現地の方々には誠に「気の毒」であるが、
天(地球・宇宙)は、人間たちの想いを「お望み通り」に、やっているだけである。
「天災」だの「災害」だの、何時までもトボケタことを云ってると、益々エスカレートしちゃうよってこと。

私を含め人は皆、鼻や口から息という「呼吸気」以外に、もう一つの「気」を体の外へ放っている。
それは、「想い」という「気」である。
どちらも、目では見えないだけでその存在は誰しもが認めてはいることであり、
それらが「エネルギー」であることも、既に誰もが知っている事実である。
「想い」と「気」がエネルギーである証拠に、「感じる」という事実がある。

そして、そのエネルギーが空気中へ放たれ、「大気」と呼ばれるモノの中の一部となっていることくらい、
チョット考えれば解ることである。

この地上に、この狭く小さな島国である日本国内にどれ程の人が住み、
その営みの中で今、「どのような、想い」を抱き、「どのような、気」を発し続けているのかを想像したとき、
読者の方々は何を感じる?

この日本国内は、かつて無いほどの乱れようである。
社会の上から下まで「デッチアゲ、保身」と「ウソ、誤魔化し」と「恨み、辛み、妬み」と「建前と本音」の垂れ流し状態である。

こんなことを、話の解る知人と話したとて、何故か最後は「でもね」が付く。

「永山君、確かにそうだ。でもね、それが人間なんだよ」

私にすれば、最後に「えっ?なんでそうなるの?」で、ある。
つまり、「それが人間なんだよ」で、おかしいと思っているのに「開き直りの逃げ口上」である。
この時点で、自分がどれだけの「おかしな気」を空気中に放っているのかが、まるで解っていないのである。

これを、「国家を挙げて、やり続けている」のである。
その数たるや「オゾマシイ数」である。最早、「キチガイ国家」である。

「大気」とは、小さな「気」が集まって出来ているから「大気」なのである。

大気中に、「おかしな気」「異常な気」が充満し、エネルギーとして目に見えないだけで、
そこいら中にうごめき続け、遥か上空にも影響するほどのエネルギーとして肥大化し続けているのである。

異常気象の「原因」は、地上で暮らす我々人間どもが吐き散らし続けている「異常なる奇症・異常なる気性」の所為である。

もし、読者がこの後に及んでも尚、「幾らなんでも、気の所為でしょう?」と思ったなら、
もう毒者である。つまり、「お気の毒」ってこと。

「だから、云ってるでしょ! 原因は、気の所為(気に因るモノ)だって!」


なぜ日本がこれ程までになっているのか。

日本の著しい「気候」の変化は、日本人の著しい「奇行」の変化である。
人の想いが荒れ狂っているいるから、大気も荒れ狂うのが道理である。
何故なら、我々人間は自然界の一部と言うより、既に見た目にも「大部分」に影響を及ぼしており、
それは誰の目にも事実として明らかである。

それを、日本に限定したエリアで考えた時、どう見える!
自作自演の自業自得である。  自作、ジ・エン奴ってことになったら、「バカ丸出し」ってこと。

外国から見れば、これほど恵まれた国はない。

南の国々の人々からみれば?北のロシアの人々から見れば?中国も然りである。
かの国々で暮らす人々がどんな状態にあり、どんな想いを抱いているかを考えれば、
更には太平洋を隔てたアメリカからどんな想いが日本に向けられているかを考えた時、
どれほどの「気」がやって来ているのか・・・である。
「風は、東西南北、何処からも彼の地の想い(気)を運んでくる」
気圧配置の「気」は、彼の地で生み出された「気」、天気図で見た通りである。

「天に、ツバを吐いたら自分に返る」
昔から懇切丁寧に、よーく解るように伝えてきたのに、「バカもいい加減にしろ」ってことである。


「おっさん等、ホントはアタマいいんでしょ」

「これより、災害対策チームを設置します」と言ってる時間があるなら、
「今、才害対策チームを設置しました」くらいのこと、言ったらどーよ。
「才害は、忘れた頃にやってくる」・・・・大事なこと忘れてるってこと。

「いい加減にしろ」って、「おてんとうさま」が親切に言ってんの!

地上で、痴情の「汚点徒さま(人間ども)」に、「おてんとう様」が言ってんの!

おかしなことばっかりやってるから、「お転倒さまになっちゃうよ」っていってんの! 
「お望み通りに天地創造やっちゃうぞ!」ってことである。

いつまでも「逆さま・イカサマ」やってると、
「お望み通りに、本気でやっちゃうぞぉ」って聞こえねえのか、このバータレメがっ!ってね。


「大気は晩に熟成する」から、「大気晩成」である。
「大気は万世によって成す」から「大気万成」である。
つまり、これまで好き放題やってきたことの「結果」だということ。

つづく


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「伝」・・・「魂のタイムトラベラー」
2010/12/21(Tue)
私の人生には意味がある。
それは、読者の方々とて例外ではない。

今回の記事は、私が過去に体験した旅の回想から始まるが、この記事の目的は単なる旅記ではない。

旅をすれば、ひと旅毎に新しい出逢いと体験があり、日常の自分では知ることのない「自分」と出逢うことになる。
私の場合、旅の記述を始めると、その記憶の世界があまりにもリアルに再現されるため、
多くのエピソードを事細かく記述する羽目になり、読者の方々を何冊もの本の世界にお付き合いさせることになる。



24歳の夏、私は5日間の休暇を取り、初めて自転車による「ひとり旅」に出た。
高校を卒業し上京して以来、信州の青く壁の様に聳える山々を写真や映像にて目にした時、
それは私を無性に引き付ける「何か」を持っていた。
「信州」という名を耳にする度に名の持つ響きは、私に「ひとり旅」への想いを募らせていた。
そしてその想いは、この旅にて果たす事が出来た。

旅に出て3日目の早朝、私は松本から安曇野へと向かった。
安曇野の地を踏みしめ目の前に続く路を見た時、その路は生い茂る夏の草木の緑に覆われていた。
その緑を食い入るように見つめ続けた時、私は見えるはずのない「日本海」を強く意識し、
そのまま目に見えぬ「存在」として感じていた。
しかし、旅に使える日数は残り2日である。強行したとて東京へ戻ることは望めなかった。
私は緑の中に日本海の幻影を見定め、「必ず!逢いに行く」と想いを放ち、背を向けた。
東京への帰路については具体的な計画など持ち合わせのない旅だったが、
来た路をそのままなぞるように折り返すことだけは「違う!」という明確な答えを私は心の奥に用意していた。

私はハンドルの前に備え付けたバッグに貼った地図を頼りに東へと向かうルートを決めた。
夕暮れの青木峠越えを敢行し、上州・上田にて宿を取った。
残りの旅路は千曲川沿いの旧道を皮切りに、小諸・追分・軽井沢から碓氷峠を一気に駆け下り
前橋へと続く中山道であった。世田谷の自宅に辿り着いたのは5日目の夕刻である。
5日間にて500キロを走る旅を終えた時、私は既に「次の夏」を見据えていた。

この旅を前後して当時の私は、職場への通勤手段を電車から自転車へと変えていた。
決定打となったのは、梅雨入りが間近となった雨の日は「最悪」の満員電車であった。
当時、クルマどころか運転免許をも持っていなかった私が、満員電車から開放されるには自転車しかなかった。

日々の走行距離は75キロであり、日によっては100を越す場合もあったが、ロードレースのチームやトライアスロンのチームを目にすると張り合って走った。
彼らからの「お誘い」には答えられなかったものの、前傾姿勢で走りながら背中には絶えず「日本海」へ向かう旅への想いをしっかりと保ち続け、走りを通して充実している「自分」を感じていた。

一年の月日が経ち、一念を保った私には「25歳の夏とは旅に出る」のは当たり前であった。
しかし、休暇を一週間ほど前にして、私は自らの選択にて旅を断念した。
その頃の私は、職場にて若手の現場チーフとして役割を担っていたが、私が担当する現場へのトラックの運転手は、いつも年上の後輩が担当していた。
ところが、その後輩にも現場を任せる流れが始まった。

「永山さん、俺はいつまでもあんたの運転手じゃねぇんだ」という後輩の一言は、使えるトラックを目の前にしながら今の自分は手を出せないという「現実」と共に、その夏の「旅への想い」の前に大きく立ち塞がった。

私は腹を決め、夏の休暇を合宿による免許取得へ変更した。
3週間の長期休暇は職場に少なからず影響を及ぼし、自ずと合宿所にいた私の下にも社長自らの電話連絡が入った。
「仕事が忙しくなったから会社に戻ってこい」
私は「合格せずには戻れません。ここで戻っては会社にとってもマイナスになる。クビも覚悟の上です。」と、想いを返した。
私からの返事を受けた社長は、笑いながら「全くお前ってヤツはしょうがねぇな。もうわかったから、しっかりやって来い」と、了承してくれたのである。
私は免許を取得し、職場に戻った。想いは既に一年後の夏に向かっていた。


26歳の夏を向かえ私は休暇を取り、再び自転車に乗って日本海を目指す8日間旅に出た。
懐かしさが散りばめられた甲州街道を西へ西へと向かい、高尾山の大垂水峠を越えた先には大月から甲州への笹子峠が待ち構えていた。全長3キロに近い笹子トンネルを抜け出た途端、私は自転車を止めた。仰ぎ見た青い空には、2年前と同じように、真っ白な夏雲が聳え立っていた。
諏訪を過ぎ、信州・松本への関所の如き塩尻峠を越え、松本からは一路日本海を目指し「塩の道」こと千国街道をひた走った。
安曇野を過ぎると緑の木立が続き、私は煌く葉もれ陽の中を駆け抜けた。
冷ややかな沢風が吹く坂道を下り続けると、明らかに潮風を感じさせる糸魚川に抜け出た。
初めて見る日本海が、そこにあった。
暫しの間、私は優しい潮風を浴びながら、穏やかに打ち寄せる波音を聞き、視線を沖へ沖へと移し水面に輝く幾筋もの光の帯を眺めていた。

次なる目的地は定めていなかったが、私は日本海沿いの道を南下することにした。
親不知と黒部を経て、6日目の昼頃まで富山市内を走り、私は日本海に別れを告げ、合掌集落・五箇山へと続く庄川沿いの国道を走り出した。
「目指すは、飛騨高山」である。東京への帰路は、鉄道による輪行である。
山越えの道に峠は「つきもの」だと心得ていた。
標高1290メートルを頂く天生峠は、道中最大の「大峠」となった。

途中、自転車の左ペダルは既に壊れかけ、鍛え込んだ両足のふくらはぎも流石に痛みを訴えてはいた。
これまで幾つもの名だたる峠を越えてきた私であったが、山越えの想いに初めて「弱音」を感じた。
背後を振り返っても、既に幾多の上り坂を避けることは出来ない。
「後戻りの誘惑」の声には説得力がなく、やるべきことは目の前の坂を一つ一つ登るだけだと腹を決めた。

頂上に近づく程に傾斜は険しくなり、前方に見据えたカーブの背後には青空しか見えなくなった。
「いよいよ登りの苦しみから開放されるのか」と私は期待を抱いた。
しかし、ようやくカーブまで辿り着くと、「まあだだよ」とばかりに新たな現実が姿を現し、
「今度こそ」と期待を抱いては幾度も裏切られる峠越えであった。

やがて、なだらかな傾斜の道となり、天生峠は目前にその姿を現した。
私は峠の終わりを確証した時、見晴らしの良い木陰に身を寄せ、腰を下ろした。
仰ぎ見た上空は青く晴れ渡り、その空は日本海へと続いていた。
心地よい冷ややかな山風を浴びながら、眼下に広がる光景を目にした時、そこには私が自らの足で乗り越えて来た幾つもの蒼き山々があり、幾つもの谷があった。
更に目を凝らし山々の中を覗き込めば、「白き光」が星星の如く点在していた。
それは、私が走り抜けて来た「証し」となる幾つもの路面とガードレールであった。谷底に大きく突き出た一本杉が、弱音の「証し」であるように、すべてが私の想いの「証し」であった。

私はこの時、目に写る全容を前にして、「旅こそ、人生そのもの」だと実感した。
気力が満ちてくるのを感じた時、両足の筋肉の痛みが和らいでいる事に気づいた。もう、峠のピークで立ち止まり振り返ることもいらないと思った。
峠のピークを一気に走り抜け、坂を下り続けた。
全身で感じる風を心地よく思えたのも束の間、登りのない坂を流れる風は私の体から急速に体温を奪い続け、凍える風となっていた。
河合村を過ぎると、飛騨高山の街が見えてきた。
街に近づくとは、私にとって「旅の終わり」であった。
それは「次なる旅への始まり」であった。「次の夏」への想いは始まっていた。

旅の回想は、ここまでである。
因みに、翌年の旅については2008年7月の過去記事「平安神宮の風と夏の雲」にて記載している。

さて、
私が回想のなかで、「旅こそ、人生そのもの」とした表現はのちに、「人生こそが、旅そのものである」となり、「人生そのものが、旅である」となった。

ここで重要なのは、誰もが歩んでいる人生という旅の路には、「証し」があるということである。
「証し」は、自らが書き記した自分への「メッセージ」であり、同時に現在自分が目にしている「メッセージ」と照らし合わせれば、自らの人生が持つ「意味」を解き明かすための重要な「鍵」となる。

今の私なりに、私の「鍵」をイメージすれば、らせん状に並んだ「証し」を凝縮して解き明かす「ダイヤル式の鍵」であり、最期に解き明かせるのは、必ず「やったことのある者」である。

このブログ記事は、私が「やり続けている者」として書いている。

やったことがない者は、本当に「自分のため」を思うのであれば、やり続けている者とやったことがある者にやり方を聞き、言われたとおりに実践するしかない。

「証し」の工(たくみ)なれば、・・・その者は「証し工・アカシック」である。
スポーツの記録をレコードと呼ぶが、記述による記録もレコードである。
「証し工」が解き明かし「記すもの」なれば、それが「アカシックレコード」である。

誰にでも「自分とは、何なのか」の答えは、必ずある。

誰もが、自分で思い出せないでいるだけである。

誰もが、思い出すために、生まれ生かされている。


私の旅には、キーワードが散りばめられている。
いわゆる「アトヅケ」であるが、後付けとは跡付けでもあることから察すれば、私が肉体を以って訪れた場所とは、実体験の記憶を「マーキング」していたと云える。
何故なら現在の私が「魂の覚醒」に至るまでの5年間、更に覚醒後に於いても私が訪れたすべての場所にまつわるキーワードは完璧に「意味」を示し、私がナニモノであり、何を成すべきモノなのかを解き明かすツールとなっている。

旅をした当時の私には、この「意図」は全くなかった。
そして私は、結果として日本全国を旅した。
それは、私が日本に生まれた「意味」を知り、活かすためである。

「意図」は、目に見えない「糸」なれば、釣り糸の「テグス」である。
私は、私の人生の「テグス根」を、私の手で引く。



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「伝」・・・「魂の覚醒」は、魂たちの叫び
2010/11/25(Thu)
この記事は、前回のブログ記事のつづきで、ある。

「今回、書き述べた出来事から、今の私なりに、何が起きているのか。その意味を深く検証し、導き出した「答え」に基づき、これからどうすればいいのかを、お送りしたいと思います。」・・・であった。


まず本題に入る前に、現在の私が、私自身についてどのような認識を持っているのかを、
私は読者に対し述べておく必要がある。

誰しもが、「見える世界」では肉体を持っている。私、永山拓美とて同様である。
「あたりまえ」の話である。

私は、永山拓美という専用の肉体を持つ、永山拓美という「魂」である。

因みに、「魂」が本体(主人)であり、専用の肉体は、云わば「乗り物」である。
具体的な表現を用いると、肉体を、クルマに例えたとき、「魂」はオーナードライバーである。
最新鋭のヒト型人造ロボットより遥かに優れた超精密マシーンともいえる
(ひとり旅をさせたら、完全無敵のおしゃべり機能付きである)。

既に、「私の認識」は、一般的レベルでもおおっぴらに口にしないだけで、
「知識だけ」のレベルからしても、驚くほど浸透している「一般的常識」である。

「えっ?・・・知らないの?」って、互いに云わないだけである。

ここで、もし読者が「時代遅れ」の一般常識のままでの視点で、私の「認識」について時代の現状把握も無いまま不用意に、「バカバカしい」って真剣に笑っておられたならば、さっさと「認識」の切り替えを私はお勧め致します。



さて、では「本題」に参る。

これは、私が今回の夏の旅を終えて、その体験によって確認した事実により、
旅する以前に得ていた体験と情報から、自ずと導き出された「答え」である。


では、この夏の旅によって、私に、何が起きているのか。

ひとつ目は、私、永山拓美の本体である「魂」が、本格的に「魂の覚醒」を始めたことである。

私は今でも日常の中で、永山拓美という肉体を以って人生で成し得た体験のデータを基に、
「私について」の統合作業を続けている。

この夏の旅から帰宅したのち、統合しようとするデータ処理のスピードは、「肉体レベル」に止まらず
「魂レベル」の領域に踏み込んだため、これまでにないスピードアップを始めたのである。

実は、今回の行動(夏の旅)とその体験を基に、この執筆活動を展開すること事態、統合するためのデータ処理のスピードアップに、一役を担っている。

では、なぜ私が、「私について」の統合作業を続けているのか。
答えは、「あたりまえ」だから・・・である。

「龍馬」が目指した世の中の、更に先にあるまだ見ぬ世界を、私は実現したい。
それは、私を含めた「みんなのため」である。

私は、私の人生を、そのために使いたい。
せっかくの人生である。使えば、「価値あるモノ」になる。
私の人生は、そのためにある。

今はまだ、その世界は見えないが、私の人生には「そこへ行く」可能性を感じさせる体験だけはある。
それは、「遥か、遥か遠い記憶」を呼び起こす可能性を暗示する体験であった。

違う表現すれば、私には「予知・予言」への可能性があると云える。このままこの活動を続けて行けば、
いずれ新たな「覚醒」が始まる可能性もあると、私は信じている。

「まさか」である。・・・が、「まさか」は、いつも現実である。

「そこ」に戻る(行く)には、じっとしていても戻れない。いかなる旅も自分の足で歩いて行けば、
「目標(めしるべ)の地」に辿り着くことが出来る。(水戸黄門のテーマが、聞こえてくるようである)

まるで、「そこ」というキーワードが示すとおり、先に「底」まで辿り着けば、
あとは、「底」より下がる事はない。残るもう一つの「そこ」とは、「底」を地獄に例えれば、
もう一つの「そこ」は天国ってことである。
(西遊記のガンダーラも、主題歌のなかでは「そこ」でした。・・・ゴダイゴ)

私は、人生の体験を通して、出逢いを繰り返し続けた事によって、
本来自分がいた世界に戻るための方法(生き方のノウハウ)に辿り着いた。
それは「気づきと確信が同時にやってきた瞬間」であった。
この「生き方のノウハウ」を、私は仲間たちと続けている。

自分の想い通りに行動することで、想いの通りの結果を手にすることが出来る。

「どうしていけばいいのか?」の答えが、ここにある。

すべての生き物に共通する行動とは「呼吸」である。
「呼吸」をあたりまえに出来なければ、必ず苦しくなるように、
「生き方のノウハウ」をあたりまえに使いこなせなければ、必ず苦しみを体験する。

然るに、この「生き方のノウハウ」を、「あたりまえ」にやり続けると、苦しみはなくなるってことである。
「道理・・・である」

私にとって、この「生き方のノウハウ」とは、
「私とは、何者なのか。どこから来て、いったいどこへ行くのか」
「なんのためにこの世に存在しているのか」
という問い掛けの「答え」に辿り着ける唯一の方法であると「確信」している。

私は、ずっと「確認」を続けてきた。
「確信の証拠」は、私の体験である。証拠は既に、挙がっている。


この夏、私が旅した北海道・東北・関東・関西に於いて、先の記事に登場したいわゆる「霊的な感性」を持った人々との出逢いが、行く先々で起きてしまった。
そのため、私は、我が身に起こる「不思議」について、「あたりまえ」であるとの認識に「さっさ」と切り替えて、この旅には「何か・・・ある」と、したのである。

因みに、・・・・・。
「何か・・・ある」とは、私が30代の頃より感じ始めた事である。
「我が人生には・・・何か、・・・が、ある」ってね。

今、思えば、・・・私は、既にそれまでの人生を振り返ることを、時折とはいえ「確かに」していた。
「きっかけ」は、それまで・・・そして、その最中に於いても、私にとって「不可思議な、めぐり逢い」だと、思わざるを得ない出逢いを目の当たりにした為であった。

なるほど・・・「めぐり逢い紡いで」とは、
私が大好きなシンガーソングライター・故・大塚博堂が作った曲である。
ここで、登場するための曲であったか!!

今から10年ほど前の私には、まだ「答え」はなくとも、「答え」に向かって行くというより、
正確には「行かされている」という気配が漂っていた。

いやはや、「行かされている」とは、「生かされている」「活かされている」である。
肉体のレベルに限らず、魂のレベルでも云えることである。今は・・・ね。


話を戻します。

私が、今回の不可解な出逢いに直面して、「おいおい、いったい何が起きているんだ」と、
反応したのは最初の頃だけで、あまりにも頻繁に起きたので、旅の途中からは、
「むむっ、もしや・・・」となり、そのうち「ピクッ」と感知するようになってしまった。

「まさか・・・そんなことって・・・」って、いくら思ったところで、
リアルタイムで「今、」目の前で展開しているのは事実でしかない。
然るに、私は、「まさか」も「そんなこと」も、在りのままに受け入れるだけである。

要するに、「まさか」も「そんなこと」も、知っていた(イメージした記憶)から解かるのである。
本当に知らなかったら、本当に思いもしなかったら、その二つの言葉が読者の口から出るはずはない。

イマサラながら「おそろしい」言葉・・・である。

自分の目で見た事実なのに、「ありえない」って言葉を口にするほど、私は馬鹿ではない。

「事実(まさか・そういうこと・ありえない)」とは、そういうモノである。

出逢った人たちは、私と目を合わせ、或いは言葉を交わしたことによって、
それぞれ違った時代の人物を感じ取り、「永山キャラバン号」と言う名の肉体(魂にとっては、クルマ)に
乗り合わせていた内の、ある魂を見ていたに過ぎない。

私と出逢った方の肉体に「同乗していた魂」の一つが、ピンポイントで感知し、ご対面となったまでのこと。
相手は、名乗りこそせぬが、沈着ながら眼光鋭きままひれ伏すところを見れば、
かつては極めて近い親族、或いは家臣の者であったことが解かる。

時代劇にて、「出合え、出合え」と叫ばれる場面があるが、チャンバラなき時代の人生に於いて、
知らずながらも自らに「出逢え!」の言葉を発し、そのまま行動し続けていたら、
多くの「出逢い」が続いていただけのことである。

これまでに旅先で出逢った人たちが語った「証言データ」を、まとめ上げると、
どうやら「永山拓美という肉体」には、歴史上さまざまな時代で名を挙げたモノたち、
即ち、「総大将」ばかりが幾人も乗り合わせているようである。

ただし、私が出逢った人たちが見た魂(彼ら)は、「便乗者・同乗者」に過ぎない。
あくまでも、「永山キャラバン号」のメインドライバーは、永山拓美という名の魂(私)である。

シルクロードの「隊商」が、キャラバンである。

「便乗者・同乗者」は皆、ハンドルを握らせては貰えない。
「総大将のボス」は、永山拓美という名の「魂」である。
「ボス」の意に、異を唱えるならば「即座に降りてもらうしかない」

「彼ら」は皆、永山拓美が突き進む人生という旅路にて、「最期の大峠」に差し掛かる時まで、
「私」に気づかれぬように「じっと」なりを潜めていなければならなかった。

彼らには、共通点がある。それは、「無念」(或いは、恨みの念)である。
この世にて、「無念」を晴らすその期を伺っていたが、この旅にて「私」に感知されてしまった。
「バレた」のである。

然るに、心配は無用である。既に彼らには、永山拓美としての生き方を以って、
「此度その無念を浄化致す」と、宣告してある。
彼らの「真の目的」は、彼らすら忘れていた「心の浄化」である。

最期の乱世を治めるには、「総大将」の魂が成し遂げたかった「悲願」である。
「悲願のままでは、彼岸(次の世界)に渡れず」である。
彼らとて、今世に於いて「改心・浄化」なしでは、彼岸に達することは出来ない。
ならば、永山拓美の意に、素直に従い働くしか手立てはないのである。

今世を彼岸にする「可能性」が、ここにある。


私には、この旅の出逢いによって「解かったこと」がある。

私と出逢い、彼らが口にした様々な時代の人物を、今の私が私なりに「ひとまとめ」にして導き出した答えは、「時空がなくなっている」ってことである。
すべての時代が、ただ見えないだけで実は「同居している」ってことである。

「すべての時空がこの世界で、ペッタンコ・・・になっている」

「時空が存在していない」ということは、
今回を限りに二度と肉体を持つカタチでの転生が出来なくなるということである。

これまでの転生とは、肉体を失った魂が新しい専用の肉体を得ることによって、
前世で成しえなかった失敗を、本来ならば克服するための転生であった。

その転生した世界は、あらゆるデータが示すとおり、今回が六度目の「ラスト」である。
つまり、肉体を使えるうちに改心をする「ラストチャンス」ってこと。
ここでクリアすれば、次のラッキーセブンが示す「七の世界」に行くことが出来る。

「時空がなく同居している」から、「ラストチャンス」に気づいた過去の魂だけは、
次の世界に行く事を目指す魂が持っている肉体(魂にとっては、クルマと同じ)に宿り、
共にクリアするためには「改心」してクリアするするしかない。


日本だけでも、政治・行政・経済・医療・司法・教育・食料・犯罪・・・に加え、自然界の異変に至るまで、
問題ばかりの大騒ぎである。

「世も末の事態」を見れば、ヤバイ事態になっている事は判る。

クリアしないと、次には行けない。
条件は皆同じである。どんな善人も悪人も関係ない。年齢も性別も関係ない。
特別扱いを受けられる人など一人もいない。残念ながらそういう事態である。

私には、「生き方のノウハウ」がある。
クリアするための「ここ一番」をやり続けているのである。

どんなに「美味しいよ」と言われても、食べてみないとわかるはずはない。
どんなに楽しいことも、やり続けてみないと、本当の楽しさはわからない。
どんな相手も、自分で足を運び、直接あって話し、体感しないと相手がどんな人かを、
本当に知ることはできない。


読者が、私に、何時「コンタクト」するかは、すべて読者が決めるしかない。

「本当に愛する者がいるならば、その想いが本物ならば尚更である」

「自らも仲間になりたいと、思われたときが、その時である」


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