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じゃあまたね・・・・である。
2009/06/17(Wed)
年明け以来、私はブログ記事の更新をしていない。
今更ながらである。・・・・が、きちんとブログをお休みすることにした。

また、再開出来る時がいつになるかは、今はわからない。

今はもう、ブログの事を考えている場合ではない。

じゃあまたね・・・・である。
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「心の旅」・・・本当の、自分探しの旅
2009/01/19(Mon)
昨年の12月1日以来、ブログ記事の更新をあえて止めていた。
自分探しの「心の旅」に出たのである。もちろん今も旅の途中である。
前回のブログに記載した中に「向かい合うふたつの大文字山」が、今の私が自分と向き合うことを、
今やるべきことだと現わしていた。

きっかけは、妻からの助言だった。
「自分と真剣に向き合って、こなかったでしょ!!」
「今、あなたに必要なことはブログを書くことではなく、これまでの自分のしてきたことが何だったのか、     そこにどんな思い・こころがあったのかを、ちゃんと掘り下げてみる事が、大事なんじゃないの?」
「自分探しは、外をいくら探しても見つからない」
「本当の自分探しは、自分の内側・こころの中にあるのよ」

私は、これまで自分と真剣に向き合うことをせずに、47年もの歳月を生きてきたのである。
自分と真剣に向き合うことは、自分の嫌なところ・見たくないところを見る事になる。
当然ながら、そんな自分の奥のところを見て「認める」直前までは苦しい。
しかし、「認める」と苦しさは消える、楽になるのである。
認めたあとは、「じゃあ、どうするの」って、自分に問いかけ直していくのである。

これでスッキリ・・・・終わるわけが無いのである。
永い年月で、染み付いた「癖」はその後も、日々の暮らしの中で「しぶとく」いろんなところでアタマを出してくるのである。
堆肥の効いた土地に、土の上だけ刈り取っては生えてくる「雑草」のしぶとさである。
「根っこ」から処理をしないと、終わりはない。
私がほったらかしにした土地は雑草だらけで、しかも「根が深い」のである。

今後わたしは、日々の暮らしとTLC匠の活動の中で、この作業を同時進行しながら、「草取り」の視点から   ブログ「TAKUMIのいいつたえ」を、書いていきたいと思います。

今回、私にとって「大事な事」へ導いてくれた妻と、私を見守ってくださっている方々に、心よりお礼を申し上げます。


前作の続編を、待たれておられた方へ
私としては、前回の続編を書くための用意はしています。かならず書きます。
私には、「書きたい」の思いがあるからです。
それは、私にとって学生たちとの素晴らしい出会いと体験が、あるからです。
ただし、その前に「書きたい」ことが、今の私にはありますので、お時間をいただきたいと思います。

じゃあ、またね。・・・・・である。

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火祭りのいいつたえ・3 「彼岸の風」
2008/12/01(Mon)
京都は歴史の街である。

京都は、奈良の都がこの地に遷都される際、大陸から来た「秦氏・はたし」という、
土木技術者の集団の手によって造られた都である。
そして、この街を流れる川も彼らの「手」による作品である。

前回のつづきである。


あの「大文字・五山送り火」の出会いから一ヶ月余りも過ぎた頃、すでに暦は「彼岸」を迎えていた。

9月に入ってからの私は、日々のスケジュールの中で少し焦りを覚えていた。
昼過ぎに、大学へ連絡を執ったところ、あいにくK氏は多忙らしく外出中だった。
ただし、夕方の17時から18時までは、大学内に戻られていて私の訪問は「大丈夫」とのことだった。


私は、大学との電話を終えると、京都市内の地図を開き、K氏の名刺に書かれた住所を頼りに大学の場所を探した。
なんと、である。大学は京都盆地の東に連なる山の北側、あの「大文字山」の北隣りの瓜生山にあった。
昼も2時を回り、私は自宅での仕事を終えると、秋晴れの街へ自転車を走らせた。

私には、もうひとつ行きたい所があった。「粟田神社」である。
鞍馬口通りを抜けるルートの途中、左に見えた高城邸をちらりと横目で流す。
あの「五山送り火」の出来事がそのまま今この瞬間も続いているのだと、頬に感じる秋風が教えてくれているようで嬉しかった。


賀茂川にでると。いきなり視界が開け、嬉しいことに遥か前方に「大文字山」が見える。
鞍馬の橋の中程で立ち止まり、川下を眺めたまま視線を頭上に移した。
和らいだ日差しと川沿いを伝う「彼岸の風」を、なんとも心地よさそうに捕らえて飛ぶ二羽のトンビの出迎えを受けた。

     昨年の九月から、もう一年間も空を飛んでいない。
     しかし、16年の間に私の身体に染み付いたハンググライダーの感覚は
     頭上の「先生たち」の腕前を眺めるだけでも楽しむことは出来た。


私は、川沿いの風を味わいながら、粟田神社を目指した。
川端通りを南下して交差する三条通りを東に折れ、暫らく走ると、ゆるやかな上り坂が始まる。
前方に見覚えのある風景が見えてきた。
それは二ヶ月前のあの暑い夏の日の午後、街頭活動のため仲間たちと訪れた
平安神宮へ向かう神宮道の始まる交差点だった。


交差点の先、100メートルほど坂を登った右手に古びた鳥居が見えた。
鳥居を潜ると、右手前方に小さな自転車溜まりが目についた。
先客たちに「右へ倣え」と自転車を置き、それなりに歴史のありそうな狭い石畳を進むと、
路の傍らには、何やら意味ありげに植え人知らずの白い彼岸花が咲いていたのである。

     (私は、植物図鑑で白い彼岸花があることは知っていたが、直に見るのは初めてだった。)

二つ目の鳥居と登りの石段から、神社の本殿が高台にあることを察する事が出来た。
鳥居の袂に掲示板があり、よく見ると手作りの「ねぶた」らしき図柄のポスターがあった。

     「ははあ、これだな」いよいよ・・・である。

石段にかぶさるように成長した桜並木の根元には、今度は赤い彼岸花である。

     私は、石段を踏みしめながら思った。

     「京都に来たのに、ねぷたは私をはなれない」
     と云うよりは・・・「私が、ねぷたを放さない」と言った方が正しい表現である。

     そうでなければ、私がこの行動を選ぶこともない。
     私が求めたもの、心の奥で強く望んだ「ねぷた」への思いが、今も続いているのである。

     この時の「現れ」・・・つまり私に起こる「現実」とは、私が常々口にしているセリフだが、

     「すべては必然」であり偶然ではないことを証明している。

ようやく・・・である。石段を登り切ると、神社の境内は清々しい風が、

             「よう、参られたな」・・・との、出迎えである。

いつの間にかバッグを背負ったシャツの背に薄っすらと汗を掻いていたことを、
粟田神社の「神風」が教えてくれていたのである。


石段の上がり口の袂に「灰皿」が見えた。
ひとまず、タバコを一本取り出し、「いっぷく」・・・である。
煙の動きが実にいい。風の流れを充分に楽しませてくれるのである。
煙を目で追うと、社殿の傍らから、眼下に広々とした京都の市街地が見えた。
そして遥か北西の山に目を凝らしてみると、「左・大文字」の姿を臨むことが出来たのである。

     ふと、私は思った。「ふたつの大文字は・・・向かい合っているやも」・・・と。
     
     まるで「鏡写し」とも採れる。それが何なのか?いやはや、京都の歴史は深いのである。


それはさておき、粟田神社に来た目的は「ねぶたのルーツ」と、うわさの「ねぶた祭り」である。
社務所の窓口に白衣を着た年長の男性の姿があった。

私は、挨拶をしてから口火を切った。

     「こちらの神社で近々、ねぶた祭りがあるとの話を聞いてきたのですが」
     「何か頂けるねぶたの資料はありますか?」

     しかし、「ええそうですが、詳しいことは解かりませんなぁ」と、いまひとつの反応であった。

すると、社務所の左隣にある松羽目を配した能舞台の脇で作業をしていた若い職員らしき男性が、
いささか訝しげな感じで現れた。
私は改めて、名刺を差し出し「私とねぷたの関わり」と「私の知りたい事」を話した。

     私は、「あたりまえ」の基本を思い出したのである。今思えば、とほほ・・・である。

若い職員の方は表情が変わり、にこやかに粟田神社とねぶたの関わりの丁寧な説明を終え、
「ちょっと待ってて・・・」と言い、彼の姿は社務所の奥へ消えた。
社務所の奥から、プリンター?らしき音が聞こえてきた。
     
     私は、彼の対応に”嬉しいびっくり”・・・である。

一枚の資料と、神社のパンフレットをもらう事が出来た。
そして、石段下の掲示板にあるユーモラスな「ねぶたのポスター」は、
なんと彼の手作りであり、まだ仮のデザインとのことを聞き、またまた笑顔の交歓となった。

「是非、ねぶた祭りに来て下さい」という見送りの言葉に、
私は「はい。必ず」のあとに礼を述べると、粟田神社を後にした。

     180年ぶりに復活する京都のねぶた祭りに
            「私は参加したい!!」

ふたつの鳥居を潜ったあと、私は思い出の地・平安神宮の大鳥居を抜けると、
一路「瓜生山」を目指したのである。

岡崎の山を横切り京都大学の正門前に出た。
私は自転車を停め、K氏へスケジュールの確認を取った。結果はOKである。
K氏から、耳に覚えのある明るい声の、「喜んで、お待ちしています」が聞こえたのである。

      (いよいよ・・・である。)


目の前には京大の美術部などの看板に並び、ハンググライダーの機体がそのまんまペタンと一機、看板として壁にくくられていたのだ。
     
     私のしてきた「空への思い」も、しっかり現れることを示しているのだと思えた。
     この時、京大ハング部の学生たちとも
     「会いたい」の思いが湧いてきたのを感じ始めていた。


    

京都造形芸術大学のキャンパスは、瓜生山の斜面に張り付くように広がっていた。

正面入り口からして、いきなり「大階段」なんて・・・私は見た事ない。

大階段上にそびえ立つ校舎の屋根下には、すでに幾つもの製作途中の「ねぶた」が見えていた。


受付を通してK氏と会い、一時間の案内を受けることとなった。
大階段の上からは、夕陽を浴びた京都の街が一望出来た。

K氏は、にこやかに一言。
     「永山さん、ここから眺める夕陽が、京都では一番なんですよ」
     (たしかに、・・・である。)
K氏の肩越しの先には、夕陽をカメラに収めようとする学生の姿があった。


キャンパスのいたる所では、屋内・屋外を問わず思い思いの形をした「ねぶた」の製作風景が見られ、何処も真剣に取り組む学生たちで活気で賑わっていた。


見るほどに、確かに私の関わってきた「弘前ねぷた」とは、
形も内部構造も全く違うものばかりである。
しかし、ハリがねを組む者、ひたすら紙を貼る者、電気を仕込む者、
大工仕事を担当する者などなど・・・皆この春、この学び舎に集った「若者たちの目」は、
嬉しいほどに「いきいき・わくわく」の輝きに満ちていた。

私は、K氏に思ったままを語った。

     「いいですねぇ。みんな子供の目をしているのが、なんともいいものですね」

     「・・・で、しょう」と、K氏は笑顔で答えた。


彼らの「目」は、私が永年に渡り関わった「必殺ねぷた人」のねぷた小屋で幾度も目にしていた
「こどもの目」だったのである。

     思わず私も仲間に加わり、手を出したくなる・・・そんな思いでいっぱいになっていた。



K氏の案内の途中、キャンパス内のやたらと長い斜面の高台の一角に、「幕末・安政の大獄」
で命を落とした「吉田松陰」の像があった。

     「なぜ?松陰の像が?」との私からの問いにK氏は答えた。

     「なんでも、この大学の理事長の意向とのことです」



   吉田松陰と言えば、長州藩・萩の「松下村塾」である。

   10年前の夏の旅で、私は「彼の地(かのち)」を訪れている。
   そして、幕末史にその名を残す「松下村塾」の以外に小さな建物に、
   高杉晋作・伊藤博文を始めとする松陰の弟子たちが、「すし詰め」状態で学んでいたことを
   知ったのである。

   吉田松陰とは、「旅の男」であり、外国を知るために渡航をを試みたが、
   「彼の地」には渡れずとも、命を懸けて自らの思いに正直に生き抜いた男である。


時刻は6時を回り、私たちは再び大階段の上に戻った。
私は、この日の礼を述べるた。

     「是非、オープンの日にも来て下さい」

     「はい、ありがとうございます。必ずお伺いさせていただきます」

K氏と私は、「じゃあ、また」の言葉を笑顔にのせて別れた。


私は、まだ作業を続ける学生たちの姿が気になり、そのまま帰るのをやめ、
幾人かの学生たちとの、会話が始まった。

     極力、私のこれまでのノウハウは目の前の彼らには「余計なお世話」であり、
     初めての「ねぶた作り」の試行錯誤を楽しむ機会を奪いかねないと踏んだ。

     ただし、・・・である。

     昨年のねぶた作りで「味」をしめた二年生たちには、
     ちょろっとだけ「ヒント」になる程度のことを言うだけで治めた。

彼らは今年の粟田神社の「ねぶた祭り」で運行するねぶたを作っていたのである。

前年の800人の経験者の中にあって、今年も自ら志願した25、6名の学生に
数名の職員が混ざった「ねぶた部隊」であった。

     ねぶた作りも二回目ともなると、さすがに美大生である。

持ち前の「センス」と「こだわり」は、作品と作りに没頭する姿が重なり合う「絵」であり、
見ているだけでも嬉しいものである。

     やはり彼らも、私の大好きな「こどもの目」を失ってはいないのである。

方々で片付けの動きが見えてきたところで、私は自宅に帰る事にした。


私は大階段の上に暫し立ち止まり、前方に広がる夕暮れの京都の街を眺めた。
京都市街を跨いだ西の彼方に、「左大文字」の黒い山陰を辛うじて見ることが出来た。


仰ぎ見た瓜生山より吹き降ろす山風は、私と「こどもたち」の間をいつまでも舞っていたのであ
る。

次回へとつづく。

追記  12月1日(師走の始まり)

記事の中の「彼岸」が、私にまとわり着いたのは、「気のせい」だろうか?
「彼岸」とは・・・向かい側に渡る。・・・である。

この日、私は賀茂川を対岸に渡り、「彼岸花」を目にし、
京都の街を隔てて東西のふたつの「大文字」が向かい合うのを見た。

かつて、京都盆地は「沼地」であった。つまり、ふたつの「大文字」は、互いに向こう岸にあったと言える。

吉田松陰の像も見たであろう左大文字の黒い「山陰・やまかげ」は、・・・山陰(さんいん)。
彼の故郷は「山陰地方」の山口県萩市・・・その萩を、私は「彼の地・かの地」と記した。

そして、「吉田松陰」の生き様にも現れる。
彼が踏む事ができなかった渡航先も「彼の地」である。
多くの弟子たちの反対を押し切って、彼は自らの思いに抗うことなく、
幕末という時代を走り抜けたのである。

彼の思い・・・「彼の血」は、後に明治維新を成し遂げる弟子たちへと受け継がれていったのである。
私の解釈によれば、彼の血は白き花をも赤く染めた「彼岸花」に繋がった。

私は子供の頃より、赤い彼岸花を見ると、「美しさ」と「毒毒しさ」の両方を覚えていた。
古くから、先人たちが「彼岸花」を田んぼの畦道や畑の土手に植えるのは、
野ネズミが穴を開け悪さするのを、彼岸花の球根に含まれている毒性の成分で防ぐためだった。

「世の中を正す」には、世の中に害を及ぼす者たちらにとっては、「毒」をもって制す。

この「毒」とは、実は表現が「あべこべ」であり、「誠」の実行のことである。

瓜生山の「こどもたち」は、この大学を選んだ時点ですでに自らの「誠」を実行し始めているのだと、
私は感じ取った。

なぜならば、自分の思いに素直に生きる「こどもの目」を見れば、わかることである。


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お電話を下さった「あなた」へ
2008/11/18(Tue)
11月16日に東京より「勇気を出して」お電話をくださった「あなた」へ
お電話、ありがとうございます。

今、本当にお苦しみの中で「勇気を出して」のお電話をくださいましたね。

私と仲間たちは、あなたの「おちから」になればと思っています。
        必ず、あなたの「おちから」になれます。そのためにも。
今回のあなたの「勇気」を、またもう一度・・・もうちょっとだけ出してください。

            「あきらめないで」

是非、また「いつでも結構です」お電話ください。お待ちしております。

                      TLC匠  永山拓美・永山幸子


                  ( 火祭りのいいつたえ・・・続編を執筆中です。)

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火祭りのいいつたえ ・2 「ねぷたからの贈り物」
2008/10/23(Thu)
           「ねぷたとは、子供らの" 夢"である」

青森・五所川原市の、あの「立佞武多」を復活させた男、三上真輝氏が私に教えてくれた言葉である。

かつて人に、「あなたにとって、ねぷたとは何か」と問われたとき、私はいつも、こう答えた。
        
           「私にとって、ねぷたは魂・ソウルだと」

昨年の夏、さらに今年の夏と2年続けて、弘前・ねぷた祭りには足を運んでいない。

            しかし、私はわかっている。

私が、どこで何をしていようとも、たとえ「ねぷた祭り」の夜、私が津軽の地に居なくとも、
私には、いつでも「必殺ねぷた人」の魂の雄叫びが息づいていることを。

         津軽の子供たちよ、このことをよく憶えておきなさい。


前回のつづきである。

高城邸での「大文字・五山の送り火」に、私と妻が招待を受けたことから、
この夜の主役・渡守希さんに加え、彼女のスタッフである黒田氏との出会いが始まった。
それは、このあと私にとって予期せぬ転回を迎え、「新たな出会いへの扉」が、開かれる夜となった。

私の口から飛び出した「ねぷた」の響きは、目の前のふたりの表情に変化をあたえた。
ふたりは、瞬時に目を合わせると、離れた観客たちの中へ声をかけた。

  「永山さん、ちょ ちょっと待ってくれますか。」

  「ねぇ Kさーん、ねぶたの話なんだけど。ちょっといーい?」

私の前に、細身の爽やかな若者がゆっくり駆け寄ってきた。

  「えっ、ねぶたの話?こちらの方がそうなんですか?」

私は、思い出したように「今頃なんですが・・・」と言って、3人に名刺を渡した。
渡守さんは、名刺を所持していなかったが、ふたりの若い男たちとは名刺交換となった。

   渡守希さんは、京都造形芸術大学出身の舞踏家だと、パンフレットに記載してあった。
   黒田氏は、渡守さんの出た大学の後輩で、アートディレクター、映像作家、そして、WEBデザイナーの
   肩書きを持っていた。
   K氏は、京都造形芸術大学・プロジェクトセンターの教務の方だった。
   
この3人の関係は、どうやら同じ大学での繋がりの様であった。


私が「ねぶた」関係者とのことで、彼は興味深げに質問を始めたのである。。

  「ところで、永山さんは青森の方なのですか?」

私は、笑いながら答えた。
      「いいえ私は、生まれも育ちも九州・鹿児島なんです」
      
      「高校卒業後、進学のため上京してその後、今年の二月半ばまでずっと東京暮らしでした」
      「ああ、今はこの京都に住んでいます。自宅は、鞍馬口からすぐ近くの紫明にあります」

  
  「えっ、じゃあ何で青森のねぶた祭りへ?」

      「あのぉ、私が参加していたのは、青森市ではなくて弘前市なんですね。」
      「青森は、ね・ぶ・たですが、弘前では ね・ぷ・たって言うんですね。」
       
      「弘前ねぷたのほとんどは、扇の形の物なのですが、私の参加していた団体では、
       大人たち用は青森みたいに、張りぼての人形ねぷた。子供たち用は、扇ねぷたでした」
        
      「一般には、青森ねぶた・弘前ねぷた・五所川原の立佞武多が有名ですが、
      青森県内には他の町々でもやってて、扇形でもね・ぶ・たって呼んでいる所があって、
      呼び方は様々です」

私は、弘前・ねぷた祭りの団体・「必殺ねぷた人」との出会いの経緯を話し始めた。

      「きっかけは、私が27歳のときですから、ちょうど20年前になります」
        
      「その年の夏に私は、自転車の一人旅をしたんですが、富山まで行った時、
      ふと、私に対してとても厳しかった先輩のことを思い出して急に彼と会いたくなっちゃいましてね」
        
      「その先輩が、弘前ねぷたに参加していた事を思い出して、そのまま夜行寝台の
      列車に乗って翌朝、弘前に着いて、その日はねぷた祭りの最終日で、
      祭りの中を探し回り先輩と会えたんです」
        
      「その時のことが"きっかけ"で、私は"ねぷた"と関わることになったんです」

  
  「へぇー。で、永山さんは、その団体でねぶたを造ってらっしゃったんですか?」

彼からの問いに、私は答えた。

       「祭りに参加し始めの頃は、祭りの夜だけの数日間の参加でした」
                                                           
       「その後は、祭りの始まる数日前に行き、最後の組み立ての手伝いに加わり、
        祭りの夜を楽しむだけの時期があり、本格的に、造りになったのは今から12年前、
        35歳の夏に扇ねぷたを造らせてもらう機会があったんです」

       「そして、その夏の祭りの終わりに、団体の絵師に世代交代の話がありました」
       「自ら名乗りを上げた新しい絵師は、"必殺ねぷた人"の仲間内では"チャロ"と
       呼ばれていた中川俊一という男で、彼は当時まだ二十歳前の若者でした」

       「しかし、人形ねぷたの台座は老朽化していたことで、私は彼から新しい台座造りを
        頼まれたんです」
       
       「その翌年から私は、台座・土台造りを主に受け持ち、人形部分との合体後は、
        補強と背面の「見送り」と呼ばれる装飾、さらに扇ねぷたのメンテナンスから、
        各所の様々な造作と組み立てと、調整を担当することになったんです」

       「その中で、私は仕事で身に着けた" ブロの技"を、子供たちに教える体験を得まして、
        まあ、その体験が東京での本業でも、活かされる事に。 なーんて事になったんです」

       
       私自身、針金で上部の人形を造った経験はないが、永年造りから関わってきた事で、
       どうやって組み上げるかは、見て知っていることを付け加えた。

目の前の3人はニコニコしながら、私の話に聞き入っていた。

Kさんの「?」がやってきた。

   「ねぶた・・いや、ねぷたですか。あれって中の灯りは電気なんですか?」

       
        「ほとんどの場合は、人形ねぷたも扇ねぷたも光源は電気ですが、
         私が造らせてもらった扇ねぷたは、光源がすべてローソクの物でした。」

  
   「えっ、ローソクって?ねぷたって表面が、紙で出来ているから火で燃えちゃって
    危なくないんですか?」

   
        確かに・・・・普通は、そう考えても不思議はないと、私は思った。

        「まあ、私のいた団体で私が知る限りでは、燃えた事はなかったですね」
       
        「ただ、1 、2度よその団体の物で高さが2メートル程の扇ねぷたが、風で煽られて
         燃えるところを見たことがあります」
        「和紙にロウを使って描いている分、燃え尽きるまではあっという間なんです」

        「因みに、私が造らせてもらった扇ねぷたは、高さが4メートルの中型サイズで、
         祭りの運行前から本拠地のねぷた小屋に帰り着くまで、ずっとねぷたの中に
         小・中学生の男の子が二人、ローソクの灯が消えないように、入っていました」

私は、「火の番」と呼ばれるそのポジションが、男の子たちの「あこがれ」のポジションであり、
なかには女の子でさえ「火の番」をやりたがる場面もあった話をした。

        さすがに、女の子の場合は却下であったと付け加えた。

  
   「でも、もし燃えちゃったら、やはり危ないですよね。」

         私は、「?・・・」となった。
        「あの、先ほども言いましたが燃えたら1分もないくらいで、
         あっという間に紙は燃え尽きて、木の骨組みだけになるんですね。」

         「あと、扇の形に張ってある紙の外と内には、ぱっと見では気づかないくらいの
         細い針金を何本も張って、紙が風に揺らされてもローソクの火に当たらないように
         なっているんです。」

        「内部の構造は、子供たちが動き易く足場もありますし、
         造った私はもちろん、中に入る男の子の意見を確認して仕上げていました。」

私は、さらに「火の番」の男の子たちに、いざという時はじっとしている事や、
決して慌てて飛び降りたりしないよう念を押した話を付け加えたのである。

私は、ねぷたの「火の番」の話を続けた。
     
        「それから、火の番の男の子はねぷたの出入り口の潜り戸のロックを、
        内側から自分の責任で閉めるんですね。出入りは、彼らの判断に任せています。」
        
        「ですから、責任においては子供といえども、一人前の扱いをします。」


               大人たちから任されるポジションに就く。 「その誇り」

        これは、かつて子供の頃に「火の番」の体験をしたという青年から聞いた話しである。

        
        「だから、男の子たちは火の番に憧れたのだと私は思います。」

     私は、笑いながら、
        「だって中々ないでしょ、子供の頃そんな体験をすることって。」


     いやはや、私は良くも悪くも「ねぷた」の話になると、止まらないところがある。


今度はKさんからの、大学での「ねぶた」造りの話題になった。

昨年、彼の勤める大学で初めて授業の一環として「ねぶた」を、学生たちが造ったとのことだった。

そして、今年も夏休みを終えた9月上旬から、一年生約800人を1チーム35、6人の20チームに分けて、
大学構内でなんと20体もの「ねぶた」を造るとのことだった。

        
       もう、私は興味津々である。 「見たい!行くべし!」の思いが募った。


   「ローソクの明かりって、いいんでしょうね。」

渡守さんに加え、彼も光源をローソクにした話に反応してきた。

       「ええ。電気とは違い、紙のむこうにゆらゆらとローソクの炎が揺れて。」
        
       「街明かりの無い街外れの暗い道を、ねぷたが行く様は赴きがあって、実にいい絵です」
       「幽幻っていうんですかね?怪しげな美しさがありますね。」

   
   「永山さん、人形タイプのねぶたでもローソクで出来ますかねぇ?」

私は、「うーん・・・」と、返事に困り考えた。
私はやった事がないのだが、出来ない事はないのでは?と、思った。

       「電気の場合と比べて、デザイン的な表現や構造上にあれこれ制約が出てくると
       思われますが、紙とローソクの炎との距離、火を絶やさないようにメンテナンスのための
       出入りなどなど、様々な工夫をすれば出来ない事はないと、私は思いますが。」

   
   「えっ?ローソクの火の点いている中に入るんですか?」

彼は、「それはちょっと・・・」のような反応を見せた。
私は一瞬、「?・・・」

       「あのぉ、さっきも言いました様に、子供でも出来る事なのに大人が出来ないなんて
       おかしいですよねぇ。」

       「で、今回の大学で造られる”ねぶた”は、電気ですか?それとも・・・」

彼は、私の問い掛けに「とんでもない」と言わんばかりの手振りで、笑いながら答えた。

   「いやいや、 やはり今年は予定の設計通りに電気でやります。」

       「まあ、そうですね。電気の方がいろいろと無難だと、私も思います。」
       
       「電気でやることに、既に決まっているのをあえて変えると、何かと余計な不都合を
        生む素に為りかねませんからね。」

Kさんから、もうひとつ興味深い話題が出てきた。

昨年ねぶた作りを経験した2年生のち25、6人で「ねぶた」を5体作り、
10月中ごろ、京都市内にある「粟田神社・あわたじんじゃ」のお祭りに参加するという話だった。

さらにである。彼の口から京都の「粟田神社」に青森・津軽藩より古い「ねぶた」の話が伝わって
いて、100数十年ぶりに今年の祭りで「ねぶた復活」との話が出てきた。


歴史の話好きな私も、一般的な「ねぷたの起原」の知識はあった。
しかし、ねぷたは京都が先とは?まあ、何事にも諸説ある世界である。

京都は、至るところにお寺と神社のある都市である。
今年の2月に京都に移り住んだ私には、神社の方には失礼ながら、「粟田神社」の名前は初耳だった。

           「京都の街を、ねぶたが練り歩く」

いやはや、「世の中なにが起きてもおかしくない」と、常々思っている私である。

最早、「ねぷたの起原」やら神社の確認などの話は後回しである。

なにより、昨年、そして今年と2年続けて「ねぷたのない夏」を送った私にとって、この話題は

                 「ご馳走」である。

                 「俺も、行くべし!」で、ある。


大学生といえば、私が関わった12、3年前の、あの"ねぷたの子供"らと同い年である。

              「ねぶたをつくる彼らに会いたい!」

私は、K氏に私の思いを「そのまま」伝えたのだった。

彼は、私の申し出を笑顔で受け入れてくれた。


思いがけない「嬉しい出会いと話の展開」に、私は「大」の文字を思った。
振り向くと、うしろで一部始終を見ていた妻が、笑顔で一言。

           「拓ちゃん、よかったね」で、ある。

私たちは、互いに「ありがとうございました。」を、別れの挨拶とした。

           また、会えるときが楽しみである。


私と妻は、屋上を降りる前に高城家の娘さんと会い、「お招き」の礼を述べた。
「舞い手」の、渡守さん、黒田氏、K氏と楽しく話をしたことを、伝えた。

すると彼女は、「そうでしたか。それはよかったですね。」と、私たちを笑顔で見送ってくれた。


私と妻は高城邸を離れ、すっかりひと数の少なくなった鞍馬口通りを、紫明の自宅へ向かった。

私は、これまでの私の多くの出会いと体験が今に繋がり、さらに今宵の新たな出会いへと
繋げてくれたのだなと思った。

           「ねぇ、たまには近場の居酒屋で、どーお?一杯。」

私は、妻からの言葉にすぐさま「うん。いいねぇ。」と返し、ますますご機嫌になった。


鞍馬口通りを歩きながら私は、ゆっくりと夜空を見上げた。

高城邸に向かう時に見た、鈍よりとした怪しげな雨雲は、すっかり姿を消していた。

上空の風を目で追うと、振り向いた「大文字山」の遥か高みに、名残りの雲を残すのみであった。




時は流れ、この「大文字・五山の送り火」の夜から、一月余りの時を過ぎた秋晴れの日の午後、
       私は「大」の文字を目指し、秋風の京都の街へ自転車を走らせるのである。

次回へ・・・つづく。である。



「追記」

1・「出会い」について

私に高校時代、油絵を教えてくれた中島千之氏。
いまでも親交を続ける師が、卒業の際に私への送る言葉は「一期一会」だった。

私自身、旅好きが功じて多くの「出会い」を得ることになった。

「出会い」は、人生の旅の中にあると捉えれば、誰にでも「あたりまえに」あるものだ。

特別なことはない、普通に生きている中で、自分の思いのままに動けば必ず誰かと出会う。

自分に本当に「素直」に行動しつづけると、「出会い」は普通にやってくるものである。

本当の名前も隠し、本当の自分も隠し、本当の思いも隠し、本当の顔さえ見せない。

これでは、誰にも憶えてもらえない。 誰にも気づいてもらえない。
      誰にもわかってもらえない。誰にも会ってもらえない。

         これでは、あきらかに妄想ごっこでしかない。

「本当の出会い」は、生身のやりとりを続けることでしかない。
会えばわかる。 話せばわかる。 本当の思いを出し合うことで「本物」になるのだ。



2・ブログをかいて

・本文の中で、「火の番」の話がありました。

子供たちに出来たことなのに、大人が出来ないなんて。普通に考えてばかげた話。
「こどもは正直」なら、「大人だって正直」は簡単に出来るよね。

子供に出来ないって言ったら、「えーっ、できないの?だめじゃん。」って、間違いなくバカにされます。

もしくは、できない大人たちは、子供たちに足元を見られて、子供たちの「うそ」がばれても
叱る事さえできません。
           
           子供たちを「甘く」見てはいけません。

これって、見方を変えると、子供に親が「おしえて」もらっている状態ってこと?

           「子は、親の鏡」って言いますからね。


・「表現したい」と思うものを、「かたち」にするには、

あの手・この手で「考えて試してみる」こと、その繰り返しである。
繰り返しやり続けることで、知識に経験からの知識が加わり、いいものになるのです。
            
        あの手、この手のノウハウは、なんでも共通である。

これだけ世の中に「ありえない」ことが、起きている・・・目の前に「ある」のだから、

           「なにが起きても不思議はない」

「できそうもない」ことが・・・出来ても、なんの不思議もないのである。

やる前から、「できない」を言う人は、「やりたくない」と、言うべきである。

正しくは、「自分は、責任を執りたくない」と、言っているのだ。



3・「大」の送り火に見えたもの

雨上がりの暗い山影のなかに、浮かび上がった「大」の字は、交差した中心部から
しっかりとした火の手を上げ、五つの方向へ「その光」を放つように広げていった。

「人」の字は、支えあう・もたれあうの字ではない。
        ひとりで立っているヒトの姿である。

己の内なるものを放てば「火」となり、腕を開けば「大」の字が「光」の字となるのだ。

自分の外に求めた「光」など、所詮「まやかしの光」でしかない。

「本当の光」は、自分の心の中に創った「苦しい闇の奥」にしかないのである。

内なるものとは「素直」である。 「正直」な思いである。 「自分の本心」である。

              それは、「真・マコト」の心である。

薄汚れた心では「光」など放てない。 自ら「こころ」を磨かないと「闇」のままである。

        自分で汚した「こころ」を磨くのは、他の誰にも磨けない。

        どんなに苦しくとも、磨けるのは「自分」しかいないのである。


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